ふたりのクロール
その翌日から再びふたりは何でもしゃべることができた。昨日までの沈黙が嘘のように、なにも考えずにふたりは見たこと感じたことを話した。それは、頭でしゃべるというよりは、ハートでしゃべる、みたいな感じだった。
芸術の島を離れる際、ふたりは岡山に戻るか四国に渡るか悩んだが、結局「もう一度境港に行ってみたい」と漏らしたヒカリの言葉が決定打となり、岡山行きのフェリーに乗った。
境港に近づいても、あの牛の島にふたりは行く気にはなれなかった。かといってゲゲゲの鬼太郎とネコ娘に会う気にもなれず、
「じゃあ、どうして僕たちは境港に向かっているんだろう?」と先輩はつぶやいた。
「わかりません」ヒカリは笑った。「でも、私のゴーストが、境港に行けって囁くの」さらに彼女は笑った。
「そう、僕のゴーストも囁くなあ」と先輩。
「ね?」
ヒカリは、JRの特急に乗りながら、先輩の手を強く握った。
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境港には案外早く、昼前に着いた。駅前の鰻屋でうな重をなぜか奮発して食べたあと、ふたりは高い建物のない、不思議なその街を手をつないで歩いた。
「ビルもなんにもない」先輩はこの前ここに来たばかりだったが、初めて来たようにつぶやいた。
ヒカリも周囲を見渡すと、3階建て以上の建物を発見することができなかった。「ここは本当に境港? 先輩」彼女は聞いた。「この前とは別の町みたい」
先輩もヒカリも、そこが境港かどうかは、どうでよくなってきた。低い建物ばかりがダラダラと続く、『ジョジョ』の杜王町みたいに歪んで見えるその街をふたりは気に入り始めた。
「何をしよう? ここで」先輩はヒカリに聞いた。「といっても僕は」と続ける。
「わかってるよ、先輩」ヒカリは笑った。「泳ぎたいんでしょう?」
「なんでわかる?」と先輩はヒカリを見た。
「そりゃあ」とヒカリはくすっと笑って答えた。「私も泳ぎたいんだもの」
「プールなんて、あるのかあ? 」先輩は言った。彼の頭の中には「海」というイメージがないようだった。
「ここまで来たら、当然海、なのでは?」ヒカリは断言して先輩を見た。「でも、塩でベタベタするか」
「それもあるけど」先輩は言った。「僕はきちんとクロールをしたい。小学校の頃のように、きちんと泳ぎたいんだよ」
「わかる気もする」ヒカリは言った。「私も、久しぶりにクロールをしたい。ついでにバタフライも」
ヒカリは小学生の頃、個人メドレーの選手だったという。「いちばん得意なのは」と彼女は言った。「バタフライ」
「すごい」と先輩は漏らした。実は彼は、小学生時代スイミング教室に通わなかったせいで、バタフライも平泳ぎも背泳ぎもできなかった。クロールのみ、なんとか25メートル泳げる程度だった。「ヒカリが羨ましい」
「じゃあ、いっしょにクロールを泳ごう、先輩」ヒカリは先輩の手をとって歩き始めた。
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歩いているとすぐに市民プールが見つかった。ふたりはスクール水着みたいなのとゴーグルを受付で買い、それぞれの更衣室に向かった。シャワー室で再開したふたりは、互いの水着姿を見てなんとなく嬉しくなった。
「先輩とまさか、ここの市民プールで泳ぐことになるなんて、驚きです」ヒカリは冷水シャワーを浴びながら下を向いた。「でも、なんだかうれしいよ」
「僕も」クロールしかできない先輩は緊張していた。「僕、ヒカリに迷惑かけるかもしれないよ」
「任せてください!」ヒカリは大きな声で応え、先輩の手をとってプールに連れて行った。「私、小学生の頃、区大会で3位になったこともあるんですよ!」
「それはスゴイ」先輩は答えた。もう彼は、すべてを彼女に委ねる気だった。
まずヒカリが水面に身体を浮かべ、水平に保った。そして、左右の腕を交互に動かし、それに連動するように、両足を控えめに上下に動かした。
その姿は優雅で、まったく水しぶきがあがっていなかった。
「素敵だ」と先輩は漏らした。それほど、境港の午後の市民プールと、ヒカリのクロールのストロークは相互に映えていた。
ヒカリは10メートルほどクロールしたあと、泳ぐのをやめてプールに立ち、先輩を見ていった。「さあ、来て!」
その声の綺麗さにつられて、先輩はプールに頭を漬けて泳ごうとした。けれどもその身体はヒカリのそれとは異なり、あまりにちぐはぐだった。ようやく息継ぎができている、という泳ぎだった。
ヒカリの3倍の時間をかけて先輩は10メートルを泳ぎ、ヒカリのそばで立った。「全然ダメだよ、恥ずかしい」先輩は思わず漏らした。
「バナナフィッシュ、見えた? 先輩」ヒカリは冗談を言って笑った。
「あ、そうか」先輩も笑った。「きちんとクロールできなくてもいいんだ」
「そうですよ」ヒカリは言った。「私たちがいまいるのは、境港なんですよ!」
その境港は、不思議とふたりを歓迎してくれていた。何かの事象があるわけではないが、ふたりにとってすごく居心地のよい空間だった。
「どうしてこの街は僕らをこんなに受け入れてくれるんだろう?」先輩は立ったままプールに頭をつけ、手だけクロールの練習をしながら言った。「やっぱり鬼太郎がやさしいのかな」
「彼もネコ娘もネズミ男もやさしいけど」ヒカリは先輩の腕をつかんでクロールの正確なストロークを伝授していた。「先輩、関節がやわらかいね」
「でも、ヒカリと同じスピードではとてもクロールできないよ」先輩はヒカリに導かれるまま、腕をぐるぐるまわしていた。
「息継ぎの向きを、私が先輩に合わせるから、いっしょにクロールしてみましょうか」ヒカリは先輩の腕から手を離して言った。「そうすると、息するときにふたりの視線が合うよ」
先輩はふたりの実力差からそんなにうまくいくだろうかと漏らした。「僕の息、確実に2秒はかかってる。はぁーって感じで」
「そんなの、どうでもいいんだよ、先輩」ヒカリは笑っている。「さあ、いきましょう」
ヒカリは先輩の背中を押した。先輩は押されるまま身体を水平にし、不器用に泳ぎ始めた。腕を回転させ、膝から下の両足を懸命にバタバタさせた。そして、自分の右手が上がったと同時に顔を上げ、息をした。
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すると、目の前に、ゴーグルはしていたものの、まさしくヒカリそのものの顔があり、彼女は笑いながら息をしていた。
ゴーグルの奥にはヒカリの目があり、その目自体が笑っていた。
そして、先輩も、必死に息をしながら、ゴーグルの中の自分の目が笑っていることを意識していた。
「ヒカリ」と先輩は思った。「僕らはイルカになっているのかな?」水中なので先輩は言葉を表出することもできず、それでいてなぜか伝えることができた。
「それはちょっとカッコよすぎますよ、先輩」とヒカリは伝えた。何によって伝えたかは、ふたりにはわからなかったが、クロールするヒカリの言葉というか意志は何らかの方法によって先輩に伝わった。「かといってマンボウっていうわけでもないし」
「スピード的にはマンボウだ」先輩は何回目かの息継ぎと同時の視線の合致の時、ヒカリに伝えた。「でも、我々は立体的だ」
先輩の言う立体的は、どうやらマンボウを上回る技術のようだったが、そのプールでマンボウと張り合う先輩がおかしくて、ヒカリは水を飲みそうになった。
「大丈夫か、ヒカリ」先輩は伝えた。先輩はマンボウのように、優雅に水の中で漂っていた。
「なんとか、大丈夫」その日初めて泳ぎに真剣になったヒカリは言った。ふたりはプールの反対側まですぐにたどりつき、ヒカリはそこで優雅にターンした。
「ヒカリ、イルカみたいだよ」先輩は思わず漏らした。境港の午後の日差しが、そのイルカターンにオレンジの色を与えた。
ヒカリはそのターン後、なんとなく思いっきり泳ぎたくなり、バタフライで25メートル泳ぎ、ターンして背泳ぎで25メートル泳いで先輩のもとに帰ってきた。そして、泳ぐのをやめて、先輩の近くで立った。
「かっこいい」先輩は笑った。
「先輩、クロールしよう!」とヒカリは言って、先輩の手をとった。
先輩はびっくりしたものの、あのゆっくりとしたクロールを再び開始し、ふたりはそれから何回も視線を合わせた。
ふたりは泳ぎながら何かを言おうとしたが、水を飲みそうだったので、先輩は懸命に泳ぎ、ヒカリは楽しく先輩のスピートに合わせてクロールした。
※『こころの湖』14章より