サファイアの口づけ
永遠はやはり、ない。ということは母のアキラから時々聞かされていたものの、19才になったカナタはたいへん残念だった。母のアキラは酒はあまり飲まなかったが、父がいない時、こっそり飲んだ。その時アキラは時々こう言った。
「小5の時、あのキャンプ場に行った時、カナタにはあの星座の三連星が見えたんだっけ?」
母は片手でワイングラスを持ちながら、いつもあまり動かずにテレビを見ていた。
その三連星は覚えていたものの、その真中にあるらしい星雲はどれだけ目を細めても見えなかった。だからカナタはいつも、
「あれは見えないよ」
と答えていた。
やがてカナタにとって、永遠とはその三連星を意味した。中2の時、人生で初めて一人になった時、カナタは人生で初めてアキラに本当のことを話しかけることができなかった。母に話せなかったことは、人の裏切りを「裏切り」として名付けることができた初めての体験だった。悔しかったが、それを裏切りという言葉の意味に収斂させることはさらに悔しかった。
そして、その悔しい感触を、母親に悔しいと言えなくなったことが尚更カナタを孤独にさせた。
母のアキラはワイングラスを見つめながらよく漏らした。
「走りたくもなるわよねえ」
カナタは反発が苦手だったので、何も返さず、母の持つその赤いグラスを見た。私は母が漏らすそうした文学的言葉が好きだ。私も大人の女になった時、そんな言葉を語りたいと思う。
そんなふうに思いながら、カナタは大学に入って好きになった先輩のことをまた思い出した。先輩はカナタを大学の近くにある小山の上にある神社によく連れて行った。山上の神社には30分も登れば着いた。着いたあと、先輩はいろいろな話をしてくれた。先輩は感情が高ぶってきて泣くこともあった。
初めてキスをしたのはその先輩とだった。その神社の前での出来事だった。そのことをカナタは母には言えなかったものの、帰るのがだいぶ遅くなったカナタを見て母は、
「河原にでもいってきたのかしら」
とつぶやいた。いや、あの神社です、とカナタは言うことができなかった。神社はカナタを珍しい場所へと導いた。それは先輩と別れたあと電車に乗り、目を瞑った時に現れた景色だった。
※※※
ボツワナなのかペルーなのか、もちろん両国とも行ったことはなかったが、カナタにはどちらかの国の奥地にありそうな洞窟がイメージできた。洞窟の奥の、大きい岩の下に、泥にまみれた宝石が埋もれていた。
その宝石をカナタは両手で握りしめた。宝石は鈍く青く輝いたあと、電車の中で眠るカナタにさらなるイメージを提起した。
深い深い地下に、少しの光の線が差し込む大きな水の集積があった。そこになぜ水がたどり着いたのかはわからない。カナタにはその水の集合体の体積をずっしりと感じることができた。こんなことは、と彼女は思った。
「先輩に言っても笑われるだけだろうなあ」
カナタは先輩が好きだった。が、その好きな気持ちのうねりは、自分が好きなことの裏返しだった。また、カナタの母への歪んだ憧れだったのかもしれない。
そうしたことを分析することは、母のアキラと違ってカナタは嫌いだった。カナタの関心は、ボツワナかペルーの奥地の洞窟にあると予想する神秘的な青い湖の水面だった。
その湖面にカナタは浮いていたかった。両手両足を広げ、目を瞑って。
母のアキラと違ってカナタは、どうしても河原を走れなかった。オバサンになっても河原を疾走する母を見てカナタは、変な嫉妬心を抱いた。そのことを先輩にしゃべると、
「河原を走るオバサンはかっこいい」
と珍しく的を得たセリフを漏らした。私は母のように河原を走ることはできないが、それを称賛することはできる。そして、その走る母のイメージを好きな先輩に描き出すこともできる。だから、私はいつも湖面に浮かんで歌っている。
※※※
先輩と会うといつでもキスをしてしまう。消極的な先輩はいつもそこで止まり、カナタは安心する。彼女はいつもそこからイメージを自分に話しかける。
自分が6才だとすると、
あのね、カナタ、
と6才のカナタは今の自分に問う。
「あなたは先輩が好き?」わたしは好きだと返すと、6才のカナタは、
「あなたは間違っている」
と断言される。
そこから6才のカナタは身体を消失し、別の言葉が続いていく。湖面に浮かぶ大人のわたしは、母のアキラのように積極的にはなれず、父のようにいつも泣いてしまう。父は泣き虫なのだ。
その涙はカナタには貴重な資源に感じる。宝石のような通俗的な貴重さではなく、SFアニメのエンジン駆動系に似たような貴重さだ。
そのエンジンを中心に置き、宇宙船はオリオン座に向かう。
※※※
モビルスーツみたいなその三連星はカナタにとって救いである。
と、アップになった先輩の平凡だが若干美しい顔を見てカナタは思った。先輩の鼻は、三連星の真ん中の馬の首暗黒星雲とかたちがよく似ていた。カナタは思わず笑ってしまい、いつもの口づけのあと、先輩にそう言ってみた。
「そう、よく言われるよ」
と、うそぶく先輩がカナタは好きだった。その言葉の渦の奥には、青く輝くサファイヤがあってほしかった。そのサファイヤによって、洞窟の奥にある湖面の光と同じで、困った時にわたしを助けてほしかった。孤独なわたしを抱っこして、飛行機に一緒に乗せてほしかった。そんなこともカナタは先輩に言ってみた。
「はは、まだそれは難しいなあ」
その言い方が不思議なことに、母のアキラとそっくりなことにカナタはびっくりした。
けれども、それに気づいて、カナタは先輩のことが今は本当に好きなんだと自覚した。その気持ちが、永遠なのかな。