フェミニズムは、私怨とバックラッシュを越えて
1.成熟を拒否し、家族解体を志向する(少女の)フェミニズムが支えた、「男女共同参画」政策
■「DV阻止=単独親権」を推し進めるフェミニズム
ここ最近、2件立て続けに「共同親権」に関する訴訟が起こされている。2件ともが、共同親権は「基本的人権」のひとつだという趣旨を訴状で述べているのも共通する(共同親権関連資料 訴状(共同親権集団訴訟)、子の連れ去り違憲訴訟)。
2通の分厚い訴状をざっと読む限りでも、ここに述べられる「親権=基本的人権=共同親権」は論理的であり、納得できる。
ただしこの問題は、そう単純ではなく、主としてDV支援の立場から、共同親権は単独親権支持者によって否定されている(ここに、申告だけで事実化される「虚偽DV」が含まれ、それに基づく「支援措置」により、訴えた側=多くは妻、が有利になるという社会問題が生じている)。
僕の議論は、DVも含むジェンダーギャップ低位置国と、少数の単独親権採用国(日本含)が重なることから、むしろ単独親権がDVを生むのでは、と問題提起をしている(「虚偽DV」はその風潮を逆利用している)。
この問題提起とは別に、以前より、「DV加害者=男性・夫」(実際は、30代の夫婦であれば、加害側は女性・妻が上回る)という偏向した観点から、離婚しても「親権」という名目で関係性が続いてしまう共同親権に関して、単独親権サイドから強力な反対がある。
いわば、DV阻止=単独親権という発想なのだが、これを推し進めてきたのが、「男女共同参画社会」を積極的に支持してきたフェミニズム、という点も見逃せない。
たとえば、上野千鶴子氏が理事長を務めるWAN(ウィメンズアクションネットワーク)のサイトで共同親権反対の署名活動が行われたことも象徴的だった(署名できます【2月28日】1万人 署名提出記者会見:STOP共同親権 DV・虐待被害者の安全を守って 共同親権法制化は 慎重な議論を)。
上野氏が単独親権支持であることは、これまでもいくつもの場面で述べられている。
■全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞
男女共同参画社会は、霞が関エリート女性官僚と、上野氏を中心としたフェミニズム/フェミニストたちが推し進めてきたと、この動きの中にいた大泉博子氏が明確に述べている。
男女共同参画は官制フェミニズムだったということである。男女共同参画がなぜエリート女性向けになったかというと、女性のエリート官僚が引っ張ったというのと、当時の社会のバックグラウンドがフェミニズムだったからである。上野千鶴子氏をはじめ、フェミニズムの論客が登場し、リベラルな考え方が社会を賑わせた。エリート官僚と社会のリベラリズムが合体した形で出来上がったものなので、「官制フェミニズム」と名付けてよいと思う。出典:「男女平等社会」のイノベーション―「男女共同参画」政策の何が問題だったのか―
女性の就業率向上等で男女共同参画政策には一定の成果があったと大泉氏は述べる。僕も同感だ。ただ大泉氏は、少子化対策等での予算配分の問題で男女共同参画政策には難点があったと遠回しに述べている。
その後我が国には「男女共同参画センター」が各地に設置された。また、配偶者暴力防止法(DV防止法)をベースに、配偶者暴力相談支援センターも各地に設置されている。支援施設一覧を見ればわかる通り、同支援センターは各地の男女共同参画センター内にもある(配偶者暴力相談支援センターの機能を果たす施設一覧)。
僕は、大泉氏と同じく女性の社会参加という点で男女共同参画政策には大きな意義があったと思うが、ここに(特にその政策を支えた80年代フェミニズムに)含まれる「ルサンチマン」の思想が、いまに至る単独親権固守の思想につながったと捉えている。
ここでのルサンチマンは、主として男性へのルサンチマンで、現代の「男社会」を否定することから始まる考え方だ。
たとえば昨年話題になった、上野氏の東大入学式祝辞にこんな一節がある。
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。
ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。出典:「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入学式で語られたこと
最後は祝辞らしく締めくくるものの、読みようによっては全編ルサンチマン(現状価値の否定)に貫かれた祝辞である。この「社会の不公正に対する怒り」こそが上野氏の魅力でありフェミニズムなのだが、全編にあふれる男性社会への怒りと諦めは根深い。
■「少女フェミニズム」と「産まない女」
こうしたルサンチマンを抱くフェミニズムは、「娘のフェミニズム」「少女フェミニズム」とも呼ばれているらしい(働く/働かない/フェミニズム 家事労働と賃労働の呪縛?! “自立の迷走”からのフェミニズムの自立のために 金井淑子)。
つまりいつまでも娘の立場で語っていて、社会や親、男に対しての攻撃の仕方が、自分が親、あるいは自分が社会だという認識が欠落しているというのだ。上野フェミニズムがとった「娘の立場」のラディカルさ、「娘の立場」からの母殺しは、自分が次には大人の「女の立場」をどこかで巧みにズラし、結果的には「成熟」を拒否する「少女フェミニズム」につながっているというものである。出典:同書、p44
このようなある種の「成熟拒否」は、別ページで指摘される、「産まない女」を選択することにより「“産”の思想をつくることには関われない」(p43)という発言とも結びつく。これは言い換えると、「家族」の否定である。
このように、男女共同参画社会を引っ張った上野氏を中心にしたフェミニズムには、以上のような現状の社会に対するルサンチマン的否定が含まれ、そこから生まれた「少女フェミニズム」「家族解体フェミニズム」があり、その結果として「子ども」が遠い存在、言い換えるとそれは「対象=オブジェ」のようなものとして捉えてしまう。
僕が少し前の当欄で、「子どもはオブジェ~小さな大人でもなく、権利の主体でもなく」とする記事を書いたのは、現代日本では子どもが「権利主体」でもなく「小さな大人」でもなく、それは奇妙な客観的な対象になっていることを言いたかったのだが、子どものオブジェ化は、自分に一生懸命な「少女フェミニズム」にも根付いている。
■共同親権をベースに、子どもも権利の主体として顕在化
つまりは、論理的に考えると合理的でない単独親権が現代ニホンで生き続けているのは、以下の理由からではないか、ということを僕は指摘したい。
1.男女共同参画社会の構築に80年代フェミニストは大きく影響を与えた。
2.だが同思想は「少女フェミニズム」であり、現状の男性社会を否定する。
3.否定の象徴がDVだが、その被害者に男性が含まれていても、DV加害=男性ととらえ、それら男性が親権を握り続ける共同親権を否定する。
4.その結果、子どもがサバルタン=潜在的対象として、見えない当事者になってしまっている。子どもを潜在化させる(存在を消す)この「少女の」フェミニズムは、「家族解体」を目指している。
冒頭に書いたとおり、近代社会の原理に忠実になるためには上のようなねじれた構図を一度紐解き、共同親権をベースにすると同時に、子どもも権利の主体として顕在化させることが健康的だ。
そして、DV対策も、ルサンチマン的妬みの否定ではなく、クリアに暴力対策を(警察システムを誘導して)行なうことが合理的だろう。
2021年7月23日、はてなブログに転載
2020年4/5「Yahoo!ニュース個人」記事より、修正・改題
2.虚偽 DV は、「昭和フェミニズム」から生まれた
■離婚ストーリーのなかで現れる「離婚弁護士」や虚偽 DV
単独親権をもとにした離 婚で生じる「虚偽 DV」「子の連れ去り(欧米では誘拐犯罪とみなされる)」が月刊誌で 2 ヶ月連続で特集されて いるようだ([https://hanada-plus.jp 月刊 Hanada])。
なにもこれはこの月刊誌が初めて取り上げた問題ではなく、各メディアでは 6~7 年前より定期的に取り上げら れる話題だ。それらはこのサイトにまとめられているのでご参照いただきたいが([http://oyako- law.org/index.php?えん罪 DV 虚偽 DV の実態])、その中のテレビ番組のミニ特集には、虚偽 DV とみなされ 子をある日突然連れ去られ(拉致)た男性の証言が紹介されている。
また新しいニュースでは、半田市での二審に至るまでの虚偽 DV 訴訟と、その後の行政との和解報道、そしてそれに 伴 う 新 聞 社 の 訂 正 記 事 な ど も 記 憶 に 残 っ て い る ( [https://www.tokai- tv.com/tokainews/article_20200330_121169 「DV の加害者と判断された」市に損害賠償求めていた公務 員の 46 歳男性 市が謝罪し和解成立]})。
僕の記憶の範囲でもこれだけの事実と報道がある。年間の離婚数は約 20 万件、そのなかでもこうした問題を帯 びるケースは多くて 15 万件に及ぶとも言われる。連れ去られたり虚偽 DV の加害者とされる人々は夫側だけで はなく、少数ではあるが妻側も含まれる。
もちろん、実際に DV のあるケースもあるだろう。事実としては、多くの虚偽を含めてたくさんの人々が(特に 最大の当事者である子どもも含め)そこに巻き込まれている。
実態としては、20 万件の離婚の中身は、虚偽 DV を含みながら多様なかたちがある。そこには一言でまとめき れない数々のストーリーがあるはずだ。
けれども、それらのストーリーを「離婚」というかたちで終結させる際、離婚問題をビジネスとして受け持つ「離 婚弁護士」の存在があり(ネット検索すると「離婚承ります」的なエグい広告は簡単に発見できる)、その流れの なかで捏造される虚偽 DV があり、行動として「子の連れ去り(拉致)」が多数存在する。
■フツーの、「やさしいお父さんたち」
上に書いたとおりこの被害者には妻側も含まれる。とはいうものの多数は男性(夫側)なのだが、彼ら彼女らの 声は沈黙させられている。いわば「離婚問題の中のサバルタン(抑圧され沈黙させられる人々を総称するポスト モダン哲学の用語)」なのだが、何が彼ら彼女らの声を抑圧するのだろうか。
現実問題としては、でっちあげ DV を簡単に認めてしまう行政や警察権力による抑圧があるとは言える。が、そ れら目に見える権力を後押しする社会の空気・エートスもあるだろう。そうしたエートスをあまり検証すること なく受け入れ、法曹界(裁判所含む)や警察は、離婚弁護士の法的技術に幇助された一方の親(多くは妻側)の 訴えを検証することなく受け入れる。
この受け入れに異議を唱えることができる当事者(虚偽 DV と連れ去りの被害者)は、メディアや法的措置に訴 えるだろう。だが、そうした力のある当事者(いわば代表者)はやはり少数派であり、多くの当事者は悔しさを 抱えつつ沈黙する。
話題の「養育費の不払い」が 70%以上を占めることなどは、いわばこうした沈黙するサバルタンのささやかな 抵抗なのかもしれない。
そうした沈黙する普通の男たちは、裁判所や行政が想像するような「悪い男たち」ではない。
現代日本であればそこら中に存在する、子どもに対して優しい普通の男たちだ。 保育園の送り迎えもするし、掃除・洗濯もするし、料理もする。妻がなにかの用事で出かける休日は、子どもと 一緒に遊び、買い物に行き、子どものおもちゃも(買い過ぎになるほど)買ったりする。 子どもが小学校に通い始めると、野球やサッカー、スケートなどにも積極的に付き添い、手伝いをする。
きわめてフツーの、「やさしいお父さんたち(もちろんお母さんもいる)」なのだ。
■「ルサンチマンフェミニズム」に言い換え
こうした、やさしいお父さんがなぜ虚偽 DV とでっちあげられ、連れ去り拉致犯罪の被害者になるのだろうか。 そうした事象を黙認してなかったことにする、日本社会の雰囲気はどこから形成されたのだろうか。
僕は、少し前に当欄で触れた「少女フェミニズム」がそうした社会的空気の醸成に大きな役割をはたした、と考 える。
だが少女フェミニズムという表現は、批評家の大塚英志氏も別の角度から言及するなどして ([https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088765/ 江藤淳と少女フェミニズム的戦後])、少 し焦点がぼやけてしまうようだ。
そのためここでは少し表現を変えて、「ルサンチマンフェミニズム」と言い換えてみたいと思う。
哲学者のニーチェが唱えたルサンチマンは怨恨などとも訳されるが、つまりは「全否定」の技術のことだ。よく 例えられるのは、頭上に見えるブドウがほしいキツネはジャンプしてもそのブドウに届かないため、そのブドウ のことを「まずい」と思いこむことで、つまりは欲しくて憧れるものを思考のなかで全否定することで、自分を 優位なポジションにする。他者への否定思考により、自分を正当化する、この思考活動がルサンチマンと呼ばれ る。
そう考えると、上の記事(「少女フェミニズム」が~)で引用した、上野千鶴子氏の東大スピーチなどは、典型的 なルサンチマンだ。それは、
{{{
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。 ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っていま す。 :https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/tokyo-uni|「がんばっても報われない社会が待っている」東大の入 学式で語られたこと
}}}
不正入試という言葉があるので曖昧になっているが、ここで言われる「報われない社会」とは、上野氏が長年指 弾し続けてきた理不尽なオトコ社会のことだと容易に推察できる。
社会はそもそも理不尽で報われない。それを成り立たせているのは、男性優位という社会の価値だ。これをまず は糾弾し、全否定することからフェミニズムは始まる。
個人的に僕はこうしたルサンチマンフェミニズムは嫌いではない。それは第一に僕が上野流フェミニズムが席巻 した 80 年代に青春を送ったからであり上野ファンだったからというのもあるが、僕自身、日本社会の硬直ぶり に辟易しているからだ。
■昭和フェミニズム
それを上野流ルサンチマンフェミニズムはバシッと突いてくれた。だから、80 年代~90 年代はそうした思考が 地面に染み込むようにして溶け込み、それはエリートが集う行政や法曹界にも染み通ったと僕は思う(そのこと を大泉博子氏は「官製フェミニズム」と表現する[https://ippjapan.org/archives/1218 「男女平等社会」のイ ノベーション―「男女共同参画」政策の何が問題だったのか―])。
オトコ社会がそもそも悪い。そうした社会の代表的現象である DV は、最低最悪の現象だ。 そして、その被害者(多くは女性)が勇気を振り絞って名乗り出た時、法システムと警察権力は無条件で守らな ければいけない。そして、この名乗りに対して、社会は温かく見守らなければいけない。
こうした、ある種の強力なルサンチマンフェミニズムに基づく規範が、社会の中に網の目のように醸成され、錦 の御旗となったその規範により、虚偽 DV という鬼っ子を産み出したと僕は解釈している。
その結果として、離婚により苦しみ沈黙する男たち(女たち)を潜在化させている。それら沈黙するサバルタン は、裁判所と行政と警察の無視に傷つくことに加え、社会からの「DV 加害者かもしれない」という目に見えな いラベリングにも苦しんでいる。
そうした権力による無視と、社会の一方的ラベリングを支えるのが、ルサンチマンフェミニズムという規範だと 僕は思う。
それにしても「ルサンチマンフェミニズム」では長過ぎるか。
そんなことを友人相手に SNS していると、上野氏は 80 年代に台頭した方だし、80 年代は昭和最後の黄金時代 だったということで、いっそのこと、
「昭和フェミニズム」
でいいんじゃないか、という意見をいただいた。なるほど、弁証法的なその対立姿勢といい、昭和最後の黄金期 である 80 年代に台頭した思想といいい、「昭和」がふさわしいかもしれない。
というわけで、以降は、 「昭和フェミニズム」を使いたいと思います。早く昭和フェミニズムを過去のものとし、それをアップデートさせ、虚偽 DV と引き離 してあげたい。
※本稿は 4/25 に初稿、4/26 に再後半部分(昭和フェミニズム部分)を校正して付け足しました。この「昭和 フェミニズム」のアイデアは、「ユニークフェイス研究所」代表・石井政之さんです。
2020-04-25 「Yahoo!ニュース個人」記事より、修正・改題
3.〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力
たまたま「共同親権」を当欄で考察し、その記事に対して「別居親」(離婚したあと親権を剥奪され子どもと別居 する親たち)の方々から予想外の「感謝」(具体的には Twitter 上での「ありがとうございます」や「いいね」) をいただいたことから、僕はある意味「共同親権沼」にどっぷりつかっている。
この沼は最初想像したよりもはるかに深く、日本社会の課題に光を当てることのできる、多くの問題系を内包し ている。
日本社会の課題とは、「単独親権」のもとに日常的に起こる、虚偽 DV や「子ども拉致」の問題だ。
これらの問題を支える単独親権や「昭和フェミニズム」すべてが詰まった我が国の離婚システム全体についても考察した。
こう振り返ると、現代日本の離婚に伴う諸問題をだいたい検討してきたようだ。
また、こうして綿密に考察すると、離婚の中で 1~2 割ほどを占めるといわれる(嘉田由紀子参院議員)DV 案 件を除くと(これは警察も入った DV 対応をしていくことになる)、8 割程度を占める多数派の事例のなかに「一 般性」を見出すこともできる。
ただ、一人で考えてもなかなか突破口は見つからないので、知り合いのジャーナリストや共同親権派の弁護士の 方の協力も得て、その「一般性」について考えた。
その結果、現代日本の離婚問題に伴う諸課題について、以下のような答えを導き出すことができた。
1. 「イエ(家父長制)回帰」を忌避するための母権優先
2.思想としての「昭和フェミニズム」
3.上の組織化(日弁連中心)
4.養育費の確保という集金システムの確立
1.はわかりにくいかもしれない。これから当欄で明らかにしていきたいが、実は日本の弁護士や法曹界はこの「家 父長制への回帰」を最も恐れているという。
日本の単独親権は、現在は母親がその親権を取ることがほとんどだが、戦後の一時期までは、日本独自の「イエ」 が親権を取り(形式的には父親)、離婚した母はイエから追い出されることが普通だった。
現在の母親中心の単独親権は、その追い出された母たちの「人権」を救済することに力点を置いているのだそう だ。
■〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力
この、母/オンナを守る、という点で、「昭和フェミニズム」は絶大な力を果たした。。
この、「母権優先」を守ってきたのがこの 30~40 年の法曹界だったという。母権優先から自然と導かれる「単 独親権」を、一部の弁護士だけではなく、日弁連の中心にいる弁護士たちも信奉しているそうだ。
これは驚きである。
そ し て 、 4. の 「 集 金 シ ス テ ム 」 に つ い ても書いた。ある意味、腐敗している。
これら、現代日本社会における錯綜する社会システムの混合に関して、現代権力論を創設した哲学者の M.フー コーであれば、
〈母権優先-昭和フェミニズム-単独親権司法〉権力
とでも呼ぶだろう。
2020-07-08、ヤフーニュース個人に掲載
4.「上野千鶴子の時代」を終わらせたい
■隠蔽と私怨
フェミニズムは都合よく隠蔽します。そのことこそが、旧来の偏狭なイデオロギーであることの証明ですね。
https://twitter.com/erishibata/status/1499728883209637891?s=21
その思想の原点に「私怨」を公的に折り込むことも、不寛容なイデオロギーだと思います。
http://toroo4ever.blogspot.com/2020/12/blog-post.html
イデオロギーではなく、もっと寛容でオープンな立場のフェミの出現が望まれます。
その意味で、日本のフェミニズムを象徴する上野千鶴子さんにはきちんと引退してほしいと僕は思っています。
「上野千鶴子氏の引退」は、日本の文系大学の改編にもつながると期待します。
◾️現実主義でオープンな「ユーモア+寛容な女性系」思想を
「師匠」や派閥の存在など無視して、実力本位でのし上がっていく社会学者や哲学研究者を見てみたいですね。
旧来著名研究者を持ち上げる出版文化も終わってほしい。
くだらないけどある種おもしろい存在として「男性」を許し微笑み、
全体主義で不寛容な私怨フェミニズムを小馬鹿にし、
片方の親とそれを操る弁護士に誘拐された子どもの立場に立つ、
現実主義でオープンな「ユーモア+寛容な女性系」思想が望まれます。
2022-03-05、はてなブログ
5.「私怨フェミニズム」の罪
上野千鶴子氏がインタビューで、自分がフェミニストになった理由は男性(社会)への「私怨」からだったと語っている。「完全に私怨です」上野千鶴子はなぜフェミニストになったのか(PRESIDENT Online)」
https://president.jp/articles/-/40853
その語り方もいつもの上野節でこのように揶揄する。
【上野】私がフェミニストになった理由はね、私怨よ。
【田房】おおー!
【上野】私的な恨みつらみ! 「私怨でフェミになるなんてけしからん」とか言う人も時々いて、「フェミニズムとは、男も女も共にジェンダーの正義を求めて闘うこと」だとか(笑)。
同記事で上野氏は、 大学紛争時代に上野氏ら女子大学生がいかに男子大学生から差別されてきたかを具体的に思い出している。
その結果「私怨」を抱きフェミニズムに走ったわけだが、まあそれはよくあることであり、またいつもどおりの上野氏的単純明快さ(そこには男性全般へのルサンチマンが見え隠れするため独特のネガティブさを含むのだが)があるので、読んでいるこちらは「あ、そう」というこれまたいつもの気分になる。
だが、よく考えると上野氏も終活を考える年齢となり現役時代は過ぎた。東大教授時代も謳歌し、80年代前半に提唱した女性の地位向上はだいぶ前進したはずだ(もちろん性暴力をはじめ多くの女性差別は残る)。
根強い女性差別は残るものの、一方では「私怨」が渦巻いた50年前と現在とでは、女性をめぐる状況は大きく変化している。それらは以下のようなものだ。
1.「アイデンティティ・ポリティクス」効果により、女性関連の予算が格段に増えた(その括り方に賛否両論はあるが、女性関連予算で8兆円に及ぶ「男女共同参画費8兆円、男女平等に国防費より多い税金」はミスリード。ネットで拡散、その実態は?(BuzzFeed Japan) - Yahoo!ニュース」)
2.「女性」に焦点化するあまり、家族内の真の当事者である「子ども」が潜在化されている(「離婚技術」としての虚偽DVと、子どものアブダクション/拉致の蔓延。その結果、子どもと「別居親」との関係が疎遠になる)
3.「男性/父」のもつポジティブな効果(広い意味での自然教育やその「ゆるさ」が醸し出す情操教育等)が注目されず、オトコの典型的な暴力性(上野氏インタビューに出てくる大学紛争時代のオトコたちのようなあり方)のみに執着する
4.「女」は実は、他にさまざまな「私怨」を抱える。その代表は「母親」への私怨だが、上野氏的「私怨/昭和フェミニズム」はそれらを省略し、「男」一般へと私怨を縮約する。その「縮約」のシンプルさが、一部の女性には救いではあるが、そこにハマることができない大勢は「暴力」と映る
5.上野氏の影響力はメディアと行政に大きく残っており、その影響を受けた人々がメディアと行政をマネジメントする立場に現在なっているため、子どもや父の実態が把握されず報道もされない
このように、軽口で「私怨」を語り、その恨みを「男」や「男社会」に縮約する「私怨フェミニズム/昭和フェミニズム」には、令和2年現在、大きな「責任」が生じている。
それは、カネを握り、メディアを制し、行政施策に大きな影響を与えているからだ。
つまり、「女性」は未だに性暴力被害を受けながらも、同時に「権力」にもなっている。男性はもちろん今も権力ではあるが、女性は「第2権力」になっている。
権力には「責任」が生じる。少女のように私怨を語るその姿は、言葉の正確な意味で「偽善」だと思う。
責任をもつ権力者として、フェミニストには発言してほしい。
2020-12-05はてなブログ 田中俊英
6.ドメスティックバイオレンスは完全断絶(支援措置)ではなく、可視化された「共依存支援」で
DVは「共依存」の一現象で、それはアルコール依存の夫婦やひきこもりの母子関係に普通に見られる暴力現象だ。
僕の専門のひきこもり支援では、大人のひきこもり息子が母親を定期的に殴る場合、以下のような対応をアドバイスする。
①警察を呼ぶ(これで暴力は止まる)
②問題は共依存なので、暴力を受けることの無意味さを支援者は母に説く
③それでも暴力が生じる場合、母は家を出て暴力を回避する
④その際、母の居場所(たとえば実家)を息子に伝え、「あなたを愛しているけれども暴力は否定する」と母自身から息子に明確に電話等で伝える
⑤夕食等は作りに母は自宅に戻るほか、電話やメールで定時連絡する
⑥暴力を定期的に振るう息子は、発達障害(凸凹含む)であることが多いので、専門支援者が粘り強く母子を別々に面談支援する
⑦やがて息子は実家を出て一人暮らしし、就労も含め自立する
あまり定式化してもよくないだろうが、たいていはこのバリエーションで解決する。
ポイントは、
②共依存の自覚
④⑤母からの定期連絡と、暴力の否定
だろうか。アルコール依存を伴う暴力もその反復性は強力で、⑥の専門機関が当事者会や入寮になったりとより強制力があるだろうが、構図としては似ている。
また最近では「ハームリダクション(傷つきの漸進的減少)」の考え方も有力になっており、上のひきこもり支援に近づいているのでは、と想像する。
いずれにしろ、共依存関係は「関係そのものを断つ」やり方では、根源的解決はない。
関係を完全断絶しても、別のところで反復するだけだ。
誰が考えたのか知らないが、DV支援の支援措置(妻が完全に連絡を断ち行政がフォローする)は非常に浅はかな方法で、共依存の悲劇を別の関係性の中で反復するだろう。
「子の連れ去り(誘拐)」後の実母による児童虐待や、新しいパートナーとの間での共依存関係の反復がそれを実証している。
閉じた暴力であるドメスティックバイオレンスの構造の中に夫婦間の問題を発見し、それを顕在化させて支援することが、家族の構成員が今よりもベターな状態になっていけることにつながる。
その意味で今回、「連れ去り」が「略取誘拐罪」に再定義されたことにより、夫婦間支援の方法も、支援措置ではない可視化されたものへと再定義されることを願う。
2022年3月12日 はてなブログ田中俊英