アキラはカナタを産んだ時、その初めての泣き声が、それまでのアキラの人生のすべてを許したような気になった。どんな本を読んでも、どんな人を愛しても、なかなか到達できなかった、それはおかしな気持ちだった。

だからこれもおかしな話なのだが、アキラは分娩台をそのまま降りて、病院の窓から飛び降りようかと思った。それはやりきったという気持ちでもなく、それまでの人生の贖罪でもなく、やけくそでもなく、赤ちゃんの、最初はか細いがやがて大きくなりアキラをつつみこんだ声がかたちづくった大きな手のようなぬくもりから生じた気持ちだった。

アキラの周辺にはなんにんもの人がいた。それらの人たちが彼女にいろんなことを話しかけてきた。それらの声はすぐに分散していき、洞窟からの声になったり、水脈でエコーする低音になった。

それらの音に包み込まれながらアキラは再び赤ちゃんを見た。

赤ちゃんは一瞬どこかに行ってしまったように思ったが、それは赤ちゃんが顔を拭いてもらっていたからだった。きれいになったその顔は、ハンドクリームの真ん中あたりのうねりのようだった。そのうねりに包まれるとアキラはまた時間を喪失し、洞窟の中の鉱石の光の前に立っている気がした。

その鉱石はいつもは泥だらけなのだけれども、今は、大きな声の一つひとつによって泥を弾いていた。

一回いっかい弾かれるたびに泥が消えていく。

すると、成層圏のように青くて薄ぼんやりと光る石が見えた。実際は土のような色の顔の赤ちゃんだと思うのだが、アキラには、深くて青い、地球と宇宙の間に射す瞬間の色に見えた。目を瞑ってアキラは横にいるその小さな存在の顔を撫でてみた。

その成層圏のようなその存在は身体をねじり、意外にもそれ以上は泣かなかった。

かわりに、当たり前だけど、アキラが声をあげて泣き始めた。

それはアキラの人生始まって以来の、長い長い泣き声と涙で、とても暗い洞窟から出てきてようやく発する、長い間夢見続けているあの水脈から発する、最初の最初のあの地点から発することのできた、とてもきれいな声だった。

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