虹、台風、雫、雨
虹の彼方に
※※※
アキラは娘のカナタに、これまで2回自分の絵を描いてもらった。一度はカナタが6才の頃、突然「ママをかく!」とカナタが叫んで始まったものだった。
それまでもカナタは何回かアキラと夫の絵を描いていたが、それはイメージで描かれたものだった。カナタがイメージするヒトのかたちがまずあり、その丸い輪郭の中に目や口などのパーツを描くやり方だった。カナタの、ヒトや母という固定されたイメージを何度も描き、それは3才よりは4才、4才よりは5才と年齢が上がるたびに上手になっていったが、それはカナタによる絵という言語の発達とパラレルだった。
だが6才になって「ママをかく!」と始めたその絵は、キッチンに座ったアキラに対して「動いちゃダメ!」と言いながら、アキラとノートを交互に見つめ、カナタなりの母の肖像を描きこんでいった。
アキラはじっとはしておらず、時々立ってその絵の進行を観察した。イメージの母、といういつもの丸い顔ではあったものの、いつものイメージを描く線が微妙に揺れていた。その線にはカナタの自信が含まれていなかったのかもしれない。カナタは何回か消しゴムでその線を消し、別の線を上から描いていった。
アキラが驚いたのは、写生してできあがっていくアキラの顔に、カナタが鉛筆で斜線を何本も引き、「影」を描いたことだった。イメージの母には影の線はなかった。だが、この写生の母には、頬の部分に黒く太くななめに描かれた影の線があった。
カナタは納得いかず、その影の線をまた何回か消し、消した上からまた線を描いていった。写生のアキラの絵はそのたびに黒ずんだものの、雰囲気が出てる、とアキラは思った。
カナタはそれでも何度も何度も母を見つめ、初めての母の肖像が完成した。だいぶ黒ずんだ頬をもつ母の顔は、口の部分だけイメージで描いたのだろう、不自然に笑っていた。
その、最後の仕上げにイメージの口を描き始めた時、カナタはこちらを見ずにずっとノートを睨みつけて描いていた。
すると、アキラの目が涙で滲んできた。初めて、娘に写生してもらう喜びの涙だろうか。そこまで娘が成長したことの実感が、彼女にいま訪れているのだろうか。あるいは、娘に直視され続けたことが、母がいつも構えている心の壁を崩したのだろうか。
娘に知られたくないため、キッチンのテーブルの上にあったティシュでその涙を拭いたものの、自分の目が潤んでいるという自覚はアキラにはあった。
最後の仕上げのため顔を上げてこちらを向いたカナタに、アキラは笑みを返すことはできた。
「うまくいかないけど」娘のカナタは恥ずかしそうにしていた。「できた」
アキラはその絵の側に行き、絵についてほめた。
※※※
2回目は、カナタが大学4回生のはじめ頃だった。カナタはそれまで2年ほど「先輩」とつきあっていたが、先輩は社会人2年目に会社を辞めてパリに行き、そこに住み始めてしまった。
アキラは多くを聞かなかったものの、どうやら先輩とはその時点で別れたようだった。
「あ、そうか」とアキラは独り言をつぶやいた。「別れてしばらくたった頃だった」
季節は梅雨時だっただろうか。就職活動を始めていたカナタは、その日もスーツを着て出かけるようだった。だが徐々に雨が本降りになり、家の中からでも大きな雨音が聞こえてきた。するとカナタは、
「やめた、やめたー」っと、黒いかばんをソファに投げ出した。
アキラも、そんな土砂降りの中をくだらない就職活動をするのはバカバカしいと思い、「やめろ、やめろー」っと言って笑った。
するとカナタは、ソファに投げ出した黒いかばんの中からノートを取り出してそのままソファに座った。そして、
「ママを描いてあげる」と言い、「はい、そこに座って」と、15年以上前に座ったのと同じ椅子をボールペンで指した。
アキラはその展開がおもしろくて、娘に言われるままに椅子に座り、娘のほうを見た。自分が年をとってしまったのかもしれない、とふと彼女は思った。
「ママ、若々しい」と言いながら、カナタはボールペンで描いていった。
それはアニメのキャラクターのようでありながらも、不思議に実写感のある線だった。15年以上前と同じく、母のアキラはじっと座らず時々立って娘の絵を覗いた。鉛筆ではなくボールペンを使っているせいか、6才の頃より、その線はずっと細い。けれども、その細い線が描く影は濃密でリアルだった。
「上手よね」とアキラはつぶやいた。「こんなに上手なんだから、就職なんてやめて、マンガでも描けばいいのに」
「黙って座る」カナタは厳格に言って母を座らせた。そして、母のアキラの顔と、手元のノートを交互に見つめ、肖像画を続けて描いていった。
カナタのもとには、当たり前だがパリからの手紙は届いていない。先輩はパリの住所を知らせてきてはいたが、カナタから手紙を書くことはできない。2ヶ月前に届いた手紙には、ポルトガル人の女と話が合う、と先輩は書いていた。ポルトガル人とは英語で会話しているといい、お互い英語が下手くそだから話が合うんだろうハハハ、みたいに先輩は書いていた。
母の肖像画は、その頬に少しだけ斜線を書き込み、完成間近になった。カナタはパリのことは忘れてその頬に集中しようと思った。
「もうちょっとで完成するよ」とカナタが言った時、その目に涙が浮かび始めた。パリのことは頭の中にはなかったはずなのに、それは目の縁に留まっていたのかもしれない。
アキラは娘のその様子を見て、「それだったらコーヒーでも入れるよ」と言って椅子から立った。2つのカップにインスタントコーヒーを入れ、ポットから湯を注いだ。
カナタは、大きな声で泣き始めた。カナタ自身、なぜこんな大きな声で泣いてしまうのかわからなかった。先輩のことは吹っ切ったはずだ。いや、吹っ切っていなかったとしても、こんな大声で泣くことではない。
外の土砂降りの雨は続いていた。だからカナタの泣き声は誰にも届かず、ただ母のアキラのみが聞いていた。
母のアキラは、15年以上前に、6才のカナタに自分の肖像画を描いてもらった時、あの時は自分が泣いてしまったことを思い出した。
※※※
インスタントコーヒーといってもその香りは強烈で、母子を香りの空間の中に閉じ込めていた。娘のカナタはずっと泣いていた。母のアキラはその様子をじっと見つめていた。6才の娘に、あのあと私はどうしたんだっけ? 娘を抱きしめたのかな、それともつくり笑いでごまかしたんだっけ?
カナタはようやく泣くことを終えるようだった。雨も小ぶりになっているようだった。虹が出ているかもしれない。
6才の時、絵を描く自分を見て泣いた母のことなどすっかり忘れているカナタは、先程まで大声で泣いていた自分についてそれほど恥ずかしく思っていないないことに、自分でも驚いていた。そして、
次からは。と二人は思った。
次からは、
「絵を描く時は慎重に」と二人は同時に言った。
やっぱり親子なのか、言い回しも同じ感じで、「シンチョウニ」とハモった。
「そう、慎重に、だよ」と母のアキラが言うと、
「了解です!」と娘のカナタは答えた。
カナタの目に涙は残っていたものの、口元は笑っていた。その口元はイメージの笑いではなく、いま、この時の、22才のカナタがその土砂降りの雨の日に衝動的に浮かべ、雨がやんだあと外には虹が出ているかもしれない空気に包まれた、6才っぽくもある笑みだった。
台風
ふたりは四国か岡山には戻らず、もう一泊その島で泊まることにした。予約は昨日のホテルの分しかしていなかったので、今日は別の民宿に電話してみた。
「よかった、一室空いていた」先輩は携帯電話を切ったあと、ヒカリに笑いながら言った。
「そして先輩」ヒカリは遅い午後になりかけた空を見ながら言った。「台風が来そうです」
ふたりとも前日はテレビの天気予報を確認していなかったのでその空模様を見て驚いてしまったが、台風が着実に接近していた。
「風が急に強くなってきたね」先輩は言った。確かに、1時間前とは別の大気の感覚だった。
「私、本当の台風をまだ知らない」ヒカリは空を見上げながら言った。「瀬戸内海って、台風が強烈なんですよね」
「そうだと思う」先輩は小さな声で言った。「民宿へ急ごう」
そう言って自分の荷物を自然と持ってくれた先輩の背中をヒカリは見た。その背中は大きいのか小さいのかわからない広さをもっていて、彼女はその背中を触ってみたかった。
けれども先輩は急いでいた。晴れていながらところどころ空が曇り、時々どこからやってくるのかわからない風の轟音を聞きながらヒカリは、先輩はたぶん私を守ってくれているのだろうと思った。
**
民宿にはその30分後に着いた。着いた途端、大雨が降ってきたので、ふたりは顔を見合わせ、
「セーフ!」
と言って笑った。
「急いでよかっただろう?」と先輩。珍しく、先輩は褒めてほしいんだとヒカリは思った。
「早足で正解でしたね!」ヒカリはそう言った。どんどん歩いていく先輩を呼び止め、その背中に飛び込まなくて正解だった。「先輩の背中って、広いのか狭いのかわかりにくい背中ですね」
先輩は民宿のガラス戸に映った自分の背中を横目で見ながら、「広い系?」とヒカリに聞いた。
「物理的には広いけど」とヒカリ。「時々縮むんですよ」
ふたりはそこで小さく笑った。「僕の背中っぼいね」先輩は言った。「広いんだか狭いんだか」
「私には広かったですよ」ヒカリは笑って言った。「ずっと私のカバンを持ってくれて、ありがとう」
ふたりは、民宿の部屋に入り、窓のそばにある古いソファに座った。そして、外の風の音を聞いた。
「一見こわいけど」とヒカリは言った。「なんだかやさしい音のように私には聞こえる」
「ごおごお言ってるけど」と先輩。「怒っているというよりは、フジロックみたいな感じのノリだなあ」
先輩は一度だけ苗場のフジロックフェスティバルに行ったことがあり、それもヒカリにとっては憧れだった。ネットで知り合った知らない人の車に乗って苗場のスキー場まで運んでもらい、4泊フジロックの斜めの芝生でテントを張って止まり、ずっと音楽漬けの生活を先輩は送ったのだった。
そのフジロックへの憧れはヒカリは隠して、先輩に聞いた。「怒ってないですよね、台風は」
「ヘッドバンギングでもないし」と先輩は言い、頭を前後に振った。
その姿を見て、ヒカリは声を出して笑ってしまった。「先輩、ヘッドバンギングが結構似合ってます」
「そう?」バンギングを緩やかに続けながら先輩は笑っていった。「メタルだって、別に怒ってないんだよ」
「じゃあ、なんだろう」とヒカリはつぶやいた。先輩はようやくヘッドバンギングをやめた。
「オレはここにいるぞって主張しているんだろうか」と先輩。先輩は少し汗をかいていた。「メタルと会話しているのかな」
「台風が頭を振って、すごい風を起こしてるのかなあ」ヒカリも何回か自分の頭を前後に振った。髪が先輩より長い分、スカンジナビアの本物のメタルファンのように見えた。
そのあたりになって、台風の風が本格的に強くなり、民宿全体が揺れ始めた。
「民宿もヘッドバンギングしてるよ」とヒカリは言い、ふたりは大きな声で笑った。
**
その台風の轟音を聞きながらふたりはセックスをした。いつもどおりそれは淡白なものだったが、なんとなくふたりはその紋切り的行為に慣れてきた。
「こんなものなんですねえ」ヒカリは、後処理する先輩の広い背中を見ながら言った。「セックスなんて、秘密でもなんでもないよ」
「そう、なのに、どうして我々はセックスするんだろうね」ゴミ箱にティッシュを捨てたあと、先輩は笑いながら言った。「楽しくはあるんだけど」そう言って先輩はヒカリの肩に手を置いた。
「私もうれしい」ヒカリは先輩の手に自分の手を重ねた。「けど、ごめん、先輩。途中で時々笑いそうになるの」
「よくわかるよ」先輩は言った。「僕もそうだもの」
台風は大きな音の風を運ぶ。小さな声で会話するふたりの上に被さるようにして自分の風の音を届ける。
それはまるで、
「私と同じ、ヘッドバンギングのやさしさみたいなものよ」
と台風が言っているようだ。
「台風さんもああ言ってます」ヒカリは天井を見て笑いながら言った。「言われてみれば、台風とヘッドバンギングとセックスって似ていますよね?」
先輩はその言葉を聞いてしばらく黙り、やがて返事した。「似てる」
「存在論的な順番では、1位が台風、2位がセックス、3位がヘッドバンギングかしら」とヒカリは言った。台風は民宿を轟音でまだ包んでいた。
「2位と3位はその都度入れ替わるなあ」先輩はヒカリの膝の上に頭を乗せた。「人間が絡むと不安定になる」
その時、台風がいちばん接近するとよくあることなのだが、家全体を吹き飛ばすような強風が吹いた。ふたりの民宿は本当に飛んでいきそうなくらいの揺れと風の轟音だった。
ヒカリはびっくりして自分の膝を枕にする先輩に上から抱きついた。先輩もそれを受け止めた。
「もうしゃべるのはやめよう」先輩はそう言い、ヒカリがパーフェクトキスと言うキスをした。たぶん、話すことを私たちは意図的にやめる時も必要だとヒカリは思った。先輩の脳にもその声が届いたのか、パーフェクトキスのあと、こう言った。
「ピンチになった時僕たちは」先輩は映画のように、ヒカリの唇に人差し指を当てた。「黙ってキスをするか、それとも」
「くらやみを求めて歩きましょう」ヒカリは先輩を見つめて言った。
「そのくらやみはどこにあるんだろう?」先輩もヒカリを見つめた。
「ここに」ふたりは同時に相手の胸を指差して笑った。そして、「本当かな?」と同時に続け、以降は黙って抱き合った。
雫たち
4人はマキノの夏のゲレンデに出て、夏の草の匂いを嗅いだ。草には夜露が乗っていて、一粒ひとつぶに夏の夜の煌めきが浮かび上がっていた。
普通はそんな小さな草の葉っぱに乗った夜露などに気づくことはないが、その夜の4人は違っていた。
「夜露の一粒ひとつぶが音楽を演奏しているようね」と、カナタさんは夫の手を探しながら言った。
「実際、聞こえてくるな」と、夫はカナタさんの手を見つめて自分の手とつないだ。「一粒ひとつぶは小さい音だけど」
「はい、ゲレンデ全体の草が集まって、大オーケストラみたいですね」僕もついついしゃべってしまった。
「待って」と、ヒカリは言い、黙ってそれらの草が奏でる音楽を集中して聴こうとしていた。「歌だけではないみたい」
そうヒカリに言われてみると、夏の夜のゲレンデの草たちは別のこともしているようだった。
それは音楽ではない。それは、なんだろう?
僕は黙って考えていた。少したってその問いに答えてくれたのは、カナタさんとヒカリの母子コンビだった。
「光の乱反射なんだよ、たぶん」夜なのに、カナタさんとヒカリは眩しそうにゲレンデを見ていた。
「まるでキューブリックの映画のような?」それまで黙っていたヒカリのお父さんがここでしゃべった。
カナタさんとヒカリはうんざりした表情で目を合わせていたけれども、僕はいちばん好きな映画の話が出たので、ついつい乗ってしまった。「ネアンデルタール人が骨を投げる場面から始まるんですよ」
「そして、ボーマン船長が最後に光の洪水を見る」ヒカリのお父さんは僕を見ながら言った。
いつもだとたぶん、カナタさんとヒカリはこのあたりで茶々を入れるのだろうが、この日の2人は黙っていた。黙って、ゲレンデ中の草を見ていた。
「よかったね、お父さん」ヒカリは僕の手を探して握った。「お父さんの話をちゃんと聞いてくれる人がやっと現れた」
「うん、ありがとう、先輩」ヒカリのお父さんはそう言って、光の洪水に包まれた夏のマキノのスキー場の中に歩いて行った。「僕はずいぶん年下の、しかも何故か波長の合う友人と出会えたみたいだ」
その友人とは僕のことだったけれども、僕は嬉しくなってしまい、お父さんの後を追いかけて夏の夜のゲレンデの真ん中に走っていったんだ。
すると、ゲレンデの草たちがいっせいにバネのように僕とお父さんを迎えて跳ね返った。水滴と雫がゲレンデ中に溢れかえり、近所の建物の光や月光を受けて大量の二次的な光をゲレンデ中にばら撒いた。
ゲレンデは夜の雫の光に包まれ、見方によっては虹色に輝いていた。
「こんなことってあるのかしら」カナタさんは目を半分瞑りながら呟いた。「この光源はなんなんだろ?」
「僕たちの」と、ついつい僕はしゃべってしまった。「僕たちが気が合っているから、草自体が輝いているんだと思います」
「草が人を祝福するなんてこと、あるのね」カナタさんは不思議そうに言った。「それは、わたしがずっと求めてきたものかもしれない」
「草の水球」とヒカリは言って、その場でしゃがみ込み、小さな草に乗った夜露をじっと見つめた。
「雫をよく見ると」僕は引き続きしゃべりつづけた。「ひとつひとつの中に、さらに光るものが映っているようです」
「どれどれ」と言ったのはお父さん。足元の草のそばにしゃがみこみ、夏のゲレンデのライトで照らしだれた葉の上に乗った小さな水球を目を細めてみた。
「ほんとうだ!」とお父さんは言った。「ひかるくんの言うとおりだ」
お父さんが僕の名前を読んでくれて、僕はすごく嬉しくなってしまった。
続いて、ヒカリが言った。
「草の上にある水球の中で光っているのは何なんだろ、おとうさん」
「月か?」お父さんは夜空に浮かぶ月を見上げていった。「でも、なんとなくかたちが違うねえ」
「ここは月ではあってほしくない」ヒカリも月を見上げて言った。「このゲレンデのたくさんの草の上にある無限の雫が映しているのが月だなんて」
「じゃあこの光は何?」と言ったのはカナタさん。「わたしは月でもいいよ。ゲレンデに生える草の上に無限に散らばる月光、みたいな」
「僕は」と僕は言った。どうしても言いたかったのだ。
「この草の上に乗る雫の中で光っているのは、やっぱり流星群だと思うんです」
そう、僕にはいつも願いがあった。僕はことばを獲得する前、たぶんいつも揺れていた。その揺れを星で表現すると、星そのもののカケラである流星だと思うのだ。軌道を持たない、破片としての流星。
僕がことばを持ってしまったのはほんの18年くらい前なんだけど、僕たちはその前、破片のような目で世の中を見ていた。
「ああ、それはよくわかる」と応じてくれたのはお父さんだった。「無数の草の上にある煌めきは、その世界からのメッセージなのかなあ」
「宇宙人じゃあるまいし、メッセージなんかじゃないよ、パパ」ヒカリは父に強く断定した。「先輩が言っているのは、わたしたちは本当のことには決してたどりつけないということなんだよ。ね、先輩? 」
「雫たちが歌おうとしているよ」と僕は言った。正確に言うと、ゲレンデの無数の雫に映しだされた僕たちの流星が、口もないのに歌い出した。
それは、ことばではない、無数のハミングの集合体だった。
「1億人くらいの混声合唱団みたい」とヒカリは言った。夜の雫に映し出された1億人の声が、なぜか不思議な塊になってゲレンデ中に木霊した。
「これは美しいよ」と、僕は少し泣きながら言った。
雨粒
僕らは午後遅くアキラさんの家を出たが、そのままそれぞれの部屋に戻るのもなんとなくためらった。
「京都のどこかに行こうよ、先輩」ヒカリは時々以前のように先輩と僕を呼んだけれども、僕は気にはならなかった。「先輩と今、結婚したいよ」
ヒカリにそう言われて、僕もまったくその通りだと思った。この夏たくさん旅をしてきて、カナタさんやアキラさん、そして僕のママにも直接出会って話し合い、すべてはそこに向かっていると実感した。
「了解!」と僕も笑って答えた。「今日、今から一気に結婚しよう」
「とは言っても、教会とかめんどくさいなあ」ヒカリは僕以上のめんどくさがり屋だった。「とは言っても、役所に結婚届は明日でも提出できるし」
「そうだ!」と僕は言った。「哲学の道で結婚を誓いあおう」
「いつも行ってるところだなあ」ヒカリは大きな声で笑ったあと、やさしくつぶやいた。「オッケー、哲学の先人たちに祝福してもらいましょう」
「先人って?」僕は哲学の道の近所に住んではいたが、具体的な哲学者のことはあまり知らなかった。
「わたしも、知らない」ヒカリはまた大笑いして僕の手をとった。
僕たちがいるそこから、哲学の道は白川通を渡ってすぐのところにあった。
「ま、いいか」と僕は言い、白川通を渡って哲学の道へと我々は歩いた。
**
予想通り哲学の道は観光客だらけだった。我々は相談していつもの蕎麦屋に入ることにした。その古い蕎麦屋は地元の常連客だけしかおらず、その日も数組の中年客がいるのみだった。
僕はなんとなく、「結婚するんだし、良いか」とヒカリに言って、熱燗を一合つけてもらった。
「良いよ、良いよ」ヒカリはそう言ってお猪口を両手で持った。「鬼平犯科帳風に結婚しましょう」
「ここは江戸ではなく、京だけど」と僕は言って、2人でチアーズした。
「僕たちに」
「わたしとひかるに」とヒカリ。
「ありがとう、ヒカリと僕に」
鬼平風の猪口には、伏見の安酒が並々と注がれ、その安い感じが今の僕たちになんとなくふさわしい、伏見・中書島の酒蔵たちも喜んでくれているよと、僕は言った。
「ひかる」と、今度は名前で僕のことをヒカリは呼んだ。「さっきおばあちゃんのところで話が出た、一緒に住むと、わたしたちはすぐに喧嘩しちゃうのかしら」
「するだろうなあ」僕はお酒を一口飲んでいった。「こうやって僕たちが会うことが、旅行や結婚式ではなく、毎日の当たり前になるんだろうから」
「何かが許せなくなるのかしら」ヒカリも猪口から一口飲んで言った。「だから人々は、喧嘩をするのが嫌で、セックスしたり子どもをつくったりするのかしら」
「そのへんは成り行きのカップルも多いんだろうけど」僕は、蕎麦屋の外を歩く大勢の観光客達を見ながら言った。「喧嘩もセックスも日常なんだろうね」
「ごめん、先輩、そういうのはなんとなくツマラナイよ、わたし」ヒカリは猪口に酒を注ぎながら言った。「結婚って、そういうこと?」
「違うと思う」僕ももう一杯注ぎ、熱燗のお代わりといなり寿司を注文した後に言った。「我々は、まったく新しい毎日をそれぞれが見つけるために、結婚という儀式を通過するんだと思う」
それはまったくの思いつきだったのではあるが、言った後、僕は自分でも変に納得してしまった。
「先輩、哲学者みたいだよ」とヒカリは言った後、テーブルに置いた僕の猪口に自分の猪口を軽く合わせ、
「よろしくお願いします」
と言った。
**
我々は結婚し、1人か2人の子どもをつくり、毎日必死に勉強し、学生の間はそれぞれの親に養ってもらい、卒業した後は必死に働いて親に恩返しし、そして僕たちの毎日も徐々に徐々につまらなくなり、というイメージを僕は抱くのを拒否している、とヒカリに僕は言った。
「わたしが描く、毎日の新しさは」とヒカリは言って、伝票を持って立った。「先輩、哲学の道をイヤホンをして歩こう」
支払いはヒカリが済ませ、僕が礼を言っている間、彼女は自分のイヤホンを僕の耳につけた。それはワイヤレスだったので、我々がコードでつながることはなかった。
彼女は鞄からもう1組のイヤホンを取り出し、自分の耳につけた。そして鞄から2つのiPhoneを取り出して、ほぼ同時に音楽をかけた。
彼女は、iPhoneのひとつを僕のポケットに入れた。
僕の耳は、ヒカリがかけた音楽と、ノイズキャンセルが強力にかかった閉鎖された音空間と、なぜかヒカリが小さく息する音を意識することができた。
「iPhoneのマイクが私の声を拾ってるんだよ、先輩」と同時に、彼女は僕の手を強く握った。音全体が閉じてしまった奇妙な静寂の中に、誰かの演奏するジャズ、そしてヒカリが息する音が空間を満たしていた。
視覚には、哲学の道を歩く大勢の観光客が映し出されていた。僕はその奇妙な感じを、イヤホン・マイクを通してヒカリに言ってみた。
「僕らは、地球のキョウトに堕ちてきた異星人みたいだ」
「デビッド・ボウイみたいですね」とヒカリは言った。
そう言われて僕は、数日前までそこにいたフジロックフェスティバルを思い出し、京都にいるヒカリとiPhoneで交わしたやりとりを思い出した。そして、ヒカリがこう書いたことも。
【「And the stars look very different today こちらは多くの星が見えています、それは地上から見るのとはまったく違います。あ、今日はわたしが少佐になったよ、先輩!」】
**
「酸素」と、僕は、昼間のアキラさんとの会話を思い出してワイヤレスイヤホンにつぶやいた。
「空気じゃなくて」ヒカリもイヤホンにつぶやいた。音楽はいつのまか止んでいる。イヤホンを通して我々の耳に届くのは、互いの囁き声と、ノイズキャンセリングでもキャンセルしきれない、哲学の道を歩く観光客たちの遠い喧騒だ。
「ヤマネコの水晶」と、次に僕はつぶやいた。アキラさんと亡きご主人との間で共有するイメージだ。
「わたしたちがおじさんとおばさんになっても」ヒカリは僕の手を握っていった。「酸素や水晶は見えるのかしら」
「たぶん、それとも違うんだと思うよ」僕はまた直感的にイヤホンに囁いた。「昨日のずっと前から、そして結婚を誓った今日とこの先数年も、またおじさんとおばさんになった何十年も先も」
と、そこまで僕が言った時、哲学の道に雨が降り始めた。
その雨は急で、小雨の段階が短い、いきなりの本格的雨だった。
仕方なく、僕もヒカリも雨に晒されてしまった。
「音は大丈夫。イヤホンは防水なんだよ」ヒカリは上を向いて言った。
「この雨粒のように」今日の僕は珍しく冴えていた。「毎秒毎に、僕たちを濡らし、包み込むんだよ」
「何を?」ヒカリは雨に濡れて嬉しそうだった。「あ、わたしたちふたりの、すべての瞬間か!」
「たぶん、雨粒は僕らを守り、いつのまか僕らのすべての時間を守ってくれてるんじゃないかなあ」やっぱり、今日の僕は冴えていた。
ヒカリは自分と僕のイヤホンを外してバッグに入れ、哲学の道の真ん中で僕にキスした。僕もそれに応じ、周辺の観光客は無視して全員が通り過ぎたが、空から落ちてくる雨粒は、その一粒一粒がチアーズと言って笑って僕らの足元に堕ちていった。