恋は終わらない
ひかるの母は光瑠という名だった。読みはひかると同じだったので、彼はよく自分の父母に、
「別の名前にしてほしかったなあ」
と愚痴をこぼしていた。そう言われと父は、
「ドリーファンクジュニアみたいでいいだろう?」と、昔全日本プロレスによく来日していたプロレスラーの名前をあげて笑った。
ママの光瑠は、
「あら、わたしは気に入っているのよ」と言って、これまた笑った。「宇多田のファンだし」
そんな父母はいつもオプティミズムとともにあった。それは、父が癌で死んだあとも同じで、49日までは涙に暮れていた母がそれ以降はカラッと明るくなったことに対し、
「ママは冷たいよ」
とひかるがこぼした時、
「いやいや、パパへの恋は終わっていないもの」
という意味不明なセリフを言って母は笑った。
「それは、パパがママの心の中にいつもいるっていうこと?」とひかるが尋ねると、
「似てるけどちょっと違う」と光瑠は言った。「幽霊のパパは、いつもわたしに『顎を上げろ』って叱咤激励するのよ」
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顎を上げろとは、いつまでもくよくよするなという意味だと思い、ひかるはそう母に聞いてみた。
「違うよ! ひかるは真面目だなあ」と母は答えた。「キスする時、パパはいつもそう言ったのよ」
「パパはどこからしゃべってくるんだろう?」幽霊になったパパの場所が知りたくて、ひかるは光瑠に聞いてみた。
「わたしもずっと謎だったんだけど」と光瑠は言った。「たぶん、月の裏側にいるんじゃないかと思う」
まさかそんな陳腐な回答が返ってくるとはひかるは思ってもみなかった。だから、ついつい爆笑してしまった。
「そんなに笑わなくてもいいんじゃない?」光瑠は少し拗ねて言った。「パパの幽霊はね、月の裏にある小高い丘のロープウェーに乗ってるらしい」
「月の裏って真っ暗なのでは?」ひかるは素朴な問いを発した。「幽霊には関係ないのかな」
「関係ないんだよ」と光瑠は言った。そして彼女は続けた。「わたしが夜勤明けでガストでモーニングを食べている時」光瑠はひかるの膝の上に手を置いた。「パパが、
『いっしょに月の裏に行こう』
って言うんだよ」
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光瑠は夫の幽霊に導かれるまま、月の裏に移動していた。光瑠は言った。
「月の裏は真っ暗じゃなかったよ」
ひかるは楽しくなってきて母に質問してみた。「それで、パパはいたの?」
「いたいた」光瑠は笑いながら答えた。「残念ながらカオル君みたいに体育座りはしていなくって、月の裏全体にこだまするような音となってパパはいたよ」
「音?」ひかるはついつい反復してしまった。「そんな音が、ロープウェーに乗ってるの?」
「音はね、自由自在なんだよ」光瑠は答えた。「夜勤明けで無茶苦茶疲れていたせいか、わたしはその月の裏の丘の上で大泣きしてしまったよ」
「すると幽霊のパパは?」ひかるは母を見つめて言った。「どう慰めてくれたの?」
「泣くな、なんてことは言わなかったな」光瑠は肘を立てて、窓の外を見た。「いつも通り、『顎を上げろ」って言ったんだよ」
「顎を上げたら、幽霊のパパがキスしてくれた?」今日のひかるは正直だった。
「キスはなかったな」と光瑠は答えた。「幽霊のパパの残響でわたしを包み込んだ」
「音で疲れを癒す?」ひかるは、自分の耳に入っているイヤホンを取り出して見つめた。
「そう、キスではなくて、幽霊のパパは音になってわたしを包んだよ」と光瑠はひかるを見て言った。「わたしも、そっちのほうがいつの間にか楽になる年になっちゃった」
「恋ってなんだろ」と、気づけばひかるはつぶやいていた。
「だから、顎を上げることなんだよ」光瑠は笑って息子の顎に手を伸ばし、その顎を上げた。「そして、上を見るんだよ」