「もしかして、あなた、カホ?」と聞いたのがカナタだった。さっきからカナタは変だ変だと思っていたものの、その女性の何が変なのかが実感できなかった。
でもやっと、わかったのだった。カホ(海王)こそ、カナタが大学生の頃、京都の丸善で大島弓子の本を思わずプレゼントしてしまった女性だった。
「バレました?」カホはアニメのキャラクターのように舌を少し出して自分の頭を撫でた。「ずっとドキドキしていたよ」
カナタとカホは、丸善で出会ってから10年ほど、ずっとメールで交流してきた。カホが生きていくうえでの苦しさをカナタはわかっていた。カホも、自分のことをわかってくれるのは長くて短い人生の中ではカナタだけなんだろうと直感していた。
「それでも、リアルなわたしたちに気づけない」
ふたりはそうやって同時につぶやいた。
「わたしたち、そんなもの?」
これも2人同時につぶやいた。
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カホは来月結婚する予定だった。たくさんの準備を彼女はこれまで重ねてきた。けれども、「わたし、結婚式前日に逃げるかも」と、カナタに言った。
「誰を忘れられないのかしら」カナタは思いついたままに言った。
「どうしてわかるの?」カホはストローから口を離して聞いた。
カホは、結婚相手と出会う1年前まで6年間付き合った男がいた。男は大学の1年先輩で、カホが初めてつきあった男性だった。
「わたし、その先輩と結婚するんだろうと思ってました」カホはペンションの椅子に座ったまま、隣のカナタを見た。「カナタさんの先輩よりカッコ悪かったかもしれないけど」
「わたしは結局先輩とは結婚しなかったし」とカナタは言って、厨房の奥を見た。そこでは夫が朝食の皿を洗っているはずだった。「それでよかったと思ってるよ」
「わたしたち、どうして別れたのか、わからないんです」カホは続けて言った。「来月結婚する別の人は、そのへんも聞いてこないし」
別れを切り出したのはカホの先輩だったそうだが、カホもその申し出に瞬時に応じた。
「というか、先輩が『そろそろ別れよう』と言う前に、その言葉がわたしの頭に浮かんで」とカホは言った。彼女はテーブルにある残りのコーヒーを飲んだ。「すると先輩は」と続けた。
「『僕がしゃべる前に、カホはその言葉が聞こえたんだね?』と、先輩は言ったとかなんとか」カナタは笑いながらカホを見た。
「え、どうしてわかるんですか?」カホはマグカップから手を離して驚いてカナタに聞いた。
「そんな時、聞こえるものよ」カナタはアニメのキャラのように小さく舌を出して肩をすくめた。「わたしはでも、先輩のそんな声が聞こえなかったけど」
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「僕がしゃべる前に、カホはその言葉が聞こえたんだね?」と、1年前、先輩はカホに聞いた。「聞こえたというか、脳に浮かんだんだろ?」
「はい、わたしの頭の中で、紫色の文字で『そろそろ別れよう』と書かれていました」その時、カホは少し涙ぐんで先輩を見上げていた。「悲しいことに、わたしも同時に」
「うん、僕の頭の中では、『別れる時ですよね』と、ピンクの文字で書かれていたよ」先輩は笑っていた。
「紫とピンク」カホは目に涙を浮かべながら、笑っていた。「決定的な言葉って、派手なんですね」
ふたりは先輩の部屋のリビングで座っていた。それからカホは黙って泣き始めた。すると先輩は、
「カホ、例のゲームをしよう」と提案した。
カホは、例のゲームというだけで何のゲームかはわかった。それは一種のテレパシーゲームで、机の上に6つモノを置き、ひとりがその6つのなかから一つを選んで頭の中でそのものを思い描く。できるだけ相手に伝わるよう、強く強く思い描く。
そして、もう片方がそのイメージを想像し、6つのうちの一つを言い当てる、というゲームだった。
1/6でも、それはほとんど当たらない。カホと先輩は時々おもしろ半分にそのゲームを行なったが、当然、ふたりともほぼ外した。
けれども時々、当たることもあった。主として当てるのはカホのほうだったが、先輩も時々当てた。当たったあと、ふたりともなぜか疲労困憊していた。
「今日も本でやろうか」と先輩は言った。
多くは、ふたりは本を6冊並べてそのゲームをしていたが、そのふたりにとっての最後の日も本になった。カホは最後くらいはCDでやろうかなと思ったが、結局本でいいか、と思った。
ふたりは先輩の本棚を一緒に見て、6冊選んだ。その6冊は、
トマス・ピンチョン『V.』原書
日渡早紀『僕の地球を守って』1巻
ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』原書
大島弓子『バナナブレッドのプディング』
ガルシア・マルケス『百年の孤独』
イマニュエル・カント『純粋理性批判』上巻
だった。
「先輩の本棚、偏ってる」とカホは言った。「けど、とても好き」と言ったあと、なぜかカホは恥ずかしくなり、顔が数年ぶりに真っ赤になってしまった。
「ありがとう」先輩は座ったまま本を手に取り、つぶやいた。『ピンチョンもマルケスもカントも旧版だからちょっと汚れてる」
「それがいいんですよ!」とカホは言った。「この読みにくさが、読者を惹きつけるんです」彼女は『V.』をペラペラとめくり、「このナミビアの熱い風と、女スパイの日常は、ちょっとカビ臭い紙でないと」
「じゃあ始める?」先輩は6冊をテーブルに並べて言った。「集中するぞ」
「はい、わたしから行きますね」カホは膝をきちんと揃えて椅子に座り、向かいの先輩に向かって、「はい、先輩、思い浮かべて」と指示した。
「オッケー」と先輩は応え、目を瞑って本を思い描いた。カホも目を閉じ、先輩が6冊のうちどの本を思い描いているのか、懸命に想像した。
「そろそろいいだろう」と先輩は言い、目を開けた。「僕はどの本をイメージしてた?」
カホは少し逡巡したあと、「あ、迷っちゃった」と首を振った。「先輩、なぜか2冊が頭に浮かんだんだけど、迷うのはやめるよ」と言った。そして、
「『V.』」
と言った。先輩は、
「当たり!」と驚いて答えた。「久しぶりに当たったな!」
このゲームをふたりはだいたい週イチペースで行なったが、この3ヶ月はどちらも当たることはなかった。
「ほんと、久しぶりだね」カホも驚いて言った。「けど、頭に思いついたのは2冊だったから、純粋に当たったわけではないね」
「そうだな」と先輩は答え、「次はカホが本を思い描いて」と言った。
ふたりは同じように目をつむり、今度はカホが本をイメージし、先輩がそれを読み取ろうとした。
30秒ほどたって先輩が、
「僕タマ!」と、『僕の地球を守って』に対してファンが好んで使う略称で答えた。すると、
「すごい、先輩! 僕タマだよ」とカホは答えた。
それからワンターン、ふたりはそのゲームを行なった。結果は珍しいことに、2回目もふたりは相手が思い描く本を当てた。
「4回中4度、100%の確率だ」と先輩は言った。
そして5回目、先輩が思い描いた本をカホは外してしまった。カホは、ついついデリダの本の名を言ってしまったが、先輩が思い描いていたのは『バナナブレッドのプディング』だった。
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「それが1年前だよね?」と、カナタは自分が経営するペンションの中で、向かいに座るカホに向かって言った。「変なカップルだなあ」とカナタは笑っていた。
「そうなんですよ」カホはカナタを見て言った。「わたしもどうして別れたのか、いまだにわからない」
「ちょっとそのゲームをやってみようか」いつのまにか近くで聞いていたカナタの夫が、テーブルに3枚のレコードを並べていた。「3枚だったら確率は高くなる」
「よし、やってみよう」カナタは夫に答えた。「1/3だもんね」
夫が並べたレコードは、
ジミ・ヘンドリックス『エレクトリック・レディランド』
中島みゆき『親愛なる者へ』
クラッシュ『ロンドン・コーリング』
の3枚だった。カホは「なぜみゆき?」とつぶやいたが、それは他のふたりにはスルーされた。
スルーされながらカホは、カナタとその夫が行なうテレパシーゲームを見ていた。10回カナタ夫婦は行なったが一度も当たらなかった。「あれ、確率的に言ってもおかしいな」とカナタの夫は言ったが、カホは「当たらない時は当たらないんですよ」と言った。
「やっぱり4回中4回当たるのはすごいんだよ」とカナタはカホに言った。そして、
「結婚なんかやめて、前の先輩とよりを戻しなよ」と、3人がその時思っていた可能性の一つを口に出してしまった。
「でも」カホは首を振ってカナタに言った。「6年もつきあって、最後はそんなゲームしか楽しみがなくなっちゃって」
「でも」カナタも、でもと言って続けた。「4回中、4回だよ!」
「でも、5回目は外れたし」カホも、でもと続けた。「しかもわたしのバイブルの『バナナブレッド』をわたしは外した」
朝のペンションで、カホの目にまた少しずつ涙が浮かんできた。「わたしは、カナタさんとわたしのバイブルの『バナナブレッド』を外したんですよ!」
「だって、5回目のテレパシーだもの」カナタはテーブルの上に置いたカホの手に自分の手を重ね合わせた。「日常の関係って、いちばん大事な時に空振りするんだよ」と彼女は言い、近くの夫に同意を求めた。
「テレパシーは、10回やって10回外れ、11回目も12回目も外れ、17回目あたりに当たってその次から50回くらい外れ、68回目に当たったりする、それが本当のテレパシーなんだよ」と、意味不明の数をカナタの夫は並べた。
夫婦の話を聞きながらカホは、4回中4回当たり、5回目の『バナナブレッド』が外れたことを先輩との別れの引き金にしたことを後悔した。「ああそうか、あれから50回外れ続けるべきだったんですね」と言い、彼女は泣き崩れた。
肩を震わせて泣くカホの前にカナタはカホのリュックを置き、無断でそのリュックの中に手を入れてiPhoneをとりだした。そしてカナタは言った。
「はい、電話」カナタはカホの肩を撫でた。「日常に戻るんだよ」