男は若いのにウンチクばかりだった。いちばん得意なのはアメリカの昔の映画の話で、なんといってもキューブリックを好んで話した。だがアキラはその話をどこかで聞いたような気がしていた。それを男に言ってみると、
「実は」と恥ずかしそうに笑って、「映画評論家の受け売りなんだよなあ」
まるまるのパクリだよ、とも男は言った。そんな軽さが、その時のアキラにはわりと効いた。つまりは、好きになってしまった。もうためらうのもなんとなくバカバカしく、そのまま男に言ってみた。
「あ、先に言われた!」
と男はおどけ、その感じがアキラには不吉な予感がしたものの、幸いにも杞憂だった。男は気分を沈めてアキラをそこへ引きずり込むことなく、またずっとそんな軽い調子でもなく、いつかきっと鬱になったり、ふたりは口をきかなくなるのだろうが、結婚してカナタが生まれ、カナタが高校の修学旅行の時プチ家出をするまでは、つまりは今までずっとそれほど深刻な関係になることはなかった。
結婚してすぐに夫と行った新婚旅行で、ふたりは南の島をクルマで飛ばした。すると、目の前の国道で大きなネコが佇んでいた。夫はすかさず、
「ヤマネコだ」
と叫んだ。アキラは「そんなバカな」と答えたが、それは本当にあのヤマネコそっくりだった。「ヤマネコといえば」と夫は言った。
アキラは「来るぞ」と思い、その予想通りヴィスコンティの山猫の話を夫はした。
その話を聞き流しながら、アキラは前を見た。ヤマネコはとっくにどこかに行っていた。あの猫はたしかに普通の猫の大きさじゃなかった。それと、普通の猫以上に思慮深そうに見えた。わたしたちを白いセンターラインの上から憐れんでいるように見えた。これから新婚生活を始め、できれば妊娠して出産する予定の、普通の生活を送ることにしているアキラを、あの大きなヤマネコは静かに憐れんでいた。
「あの映画、どこで見た?」とアキラは、ヴィスコンティの山猫を夫が初めて見た場所について聞いてみた。
「家で。深夜映画だよ」と夫は答えた。「僕の高校時代は時々まだそんなのもテレビで見ることができた」
夫は再びクルマを運転していた。周辺にはマングローブの根っこのうねりが次々に現れた。アキラはその根っこたちを見ながら、実家に置いたままの自分の自転車のことを思い出していた。わたしはいまこうしてクルマの助手席に乗っているけど、と彼女は思った。「本来はあの自転車に乗るはずなの」
「きみ、自転車、好きだもんなあ」と夫は笑った。しまった。つい考えが言葉になってしまった。この頃は心を閉ざすことがなかなかできない。
深刻にもなかなかなれなくて、アキラは夫の肩を軽くこついて笑った。こんなになってしまったよ、わたしは。と今度は一人心のなかで彼女はつぶやいた。
※※※
豪華な夕食をとり、多少アルコールを飲んだこともあり、アキラたちは再びホテルを出て歩いてみようということになった。
その日の客は少なく、ホテル周辺もあまり人は歩いていなかった。道路にもクルマは走っていない。海に行くのもベタつきそうでいやだったし、かといってマングローブの中には入っていけない。南国なのに味気ないその夜の国道を、ふたりは手をつないで歩いた。
夫は夜空を見上げていた。その手には小さな小枝を持っていた。それをちらりと見てアキラは来るぞ、と思ったが、まさにその予感通りあの話が始まった。
「2001スペースオデッセイでキューブリックは」と、わざわざ映画の原題を深刻ぶって夫は語り始めた。「あの、美しき青きドナウをなぜあのタイミングで流したんだろうね?」
「そりゃ、類人猿があれだけ骨を思いっきり空に放り投げて、くるくるとその骨が回転する描写が続くんだから、自然な成り行きなんじゃないかしら」
「その、自然のなりゆきというのがポイントで」と夫は言った。「こうやって、骨がくるくるまわるだろ?」と言いながら夫は小枝を起用にくるくるとまわした。「骨が回転し終わる放物線のそのトップで、骨は宇宙船に変わるんだけど」
「ああ、トップに行く前に宇宙船になればよかったってこと?」とアキラは少し関心が出てきて答えた。「テニスのライジングショットじゃないんだから、描写に奥行きがなくなってしまうんじゃないかしら」
「そうなんだよなあ」と夫は親指を立てて笑った。「ライジングショットの逆で、骨が落ち始めた時に宇宙船になればと僕は」ここまで言って夫は前方を指差した。
そこには、昼間見たのと同じ大きなヤマネコが佇んでいた。ヤマネコは国道の真ん中のセンターラインに昼間と同じ姿で佇んでいた。
「あ、同じ」とアキラはつぶやいた。
「同じだよなあ」と夫。
ふたりは手をつなぎ、ヤマネコと対峙した。
「待てよ、アキラ」と夫は珍しくアキラの名前を呼んだ。「声を出すなよ」
夫が何をするのかと待っていると、アキラの右手のてのひらに、夫は黙って指でなにかをかき始めた。
アキラはくすぐったくなって手を離そうとしたが、「我慢して」と彼は言って指でなにかをかくのを続けた。
その間、ヤマネコはずっとこちらを見ていた。国道はその先でカーブして暗く消えていき、ヤマネコが立つセンターラインも右へと曲がっていた。月が出ているかどうかもその時アキラにはわからなかった。
わかったのは、夫がアキラのてのひらにかいたサインだった。その全部はたぶんわからなかったけれども、だいたいはわかった気がした。
※※※
娘のカナタが高校生になった時、その話を聞き、文字の意味をアキラにたずねた。たずねたのはリビングで、近くに夫がいた。
「そのあと、すぐにヤマネコは林の中に入っていって」とアキラは言った。「カナタ、手をかしてごらん」とアキラは続けた。
カナタは黙って自分の左手を差し出した。
アキラは、「ヤマネコはやっぱり何かを話しかけようとしていたんだよ」と独り言のようにつぶやいた。そう言いながら、アキラは娘のてのひらに何かをかいていった。
カナタは最初はてのひらが変な感じがして笑っていたが、やがて母の指の動きに意識を集中させていった。それはおそらく日本語ではなかった。また、ヤマネコのイラストでもなかった。
カナタにははっきりとはわからなかったが、黙って母の手をとった。
そして、今度は母のてのひらにそのサインをかいていった。
「当たり!」と母は笑った。「よくわかったわね」
「おとうさんって、ロマンチックなんだけど、いつもはずしてるんだから」カナタは映画解説者風の語り口になっていた。
2001: A Space Odyssey
「って、そんなのを、普通そんなロマンチックな場面でかくか、おとうさん!」
近くにいた父は、「いや、キューブリックというかヴィスコンティというのは」と言ってウンチクを始めようとしたが、さすがに雰囲気を読んで場を外した。
「たぶんおとうさんは」とアキラは続けた。「こんなのもかいたと思う」
アキラは恥ずかしかったが、夫が20年近く前にあのヤマネコの前でかいた絵を娘のてのひらに描いてみせた。
それは、ヤマネコと会った夜にはまだ生まれていなかったカナタの顔がデフォルメされた絵だった。その赤ちゃんの口は笑っていた。
その後父は、「キューブリックのスターチャイルドだよ」とまた逃げた。