水滴のすべて chapter two

7.反射する衛星


祖母のアキラが住んでいたのは本当にひかるやヒカリが住む京都の白川通の、浄土寺あたりだった。近くに真如堂という地味な寺があり、 白川通りから真如堂に上がる坂の途中に、その古い古い2階建ての民家があった。

ひかるは一度自分の部屋に荷物を置きに帰ることができるほど、アキラはほんとうに近所に住んでいた。

ヒカリもひかるの近所のワンルームに住んでいたから、祖母のアキラとは歩いていける距離に我々は住んでいたのだった。

荷物を置きに自分の部屋に一度帰ったヒカリは、浄土寺のバス停で再びひかると待ち合わせ、真如堂に向かう坂道を上がっていった。

母のカナタに教えてもらった住所の通り歩き、脇道に入ったところにその家はあった。

その家の2階からは、変なギターとともに、女性がボブディランの「ブルーにこんがらがって」を歌っていた。

アキラの声は綺麗で、古い階段を上がって初めて見た彼女の横顔も、透き通るような白い頬だった。祖母はこっちを見て言った。

「結婚、おめでとう。なんとなく、この夏ヒカリが結婚するような気がしてたよ」笑いながらアキラは言った。彼女はヒカリにここに住むことになった事情を簡単に説明している時(亡き祖父の遺産のようだった)、ひかるはその家の2階を見回した。

そこは、幕末からあるような古い京都の家で、広めの6畳間が3つ並んでいた。ろくな家具は揃っておらず、布団とギターとパソコンと旅行鞄があるくらいだった。

「私はカナタを産む前、好きになった人がいて」とアキラはしゃべりだした。「大学の哲学の先生だったんだけど、すごく泣き虫で」

ひかるとヒカリは祖母が何かを伝えたいんだと思い、2人とも黙って聞いていた。

「いつも大学の近くを流れる川の河原であっていたんだけど」アキラは続けた。「ある日、妊娠しちゃったんだ」

そして彼女は立ち、窓を開けた。窓の向こうには、大文字の山があった。

「あの大文字に今から登ってみようか?」アキラはこっちを振り返って笑い、言った。

「わたし、行ったことなかったよ、おばあちゃん!」すぐに反応したのがヒカリだった。

「じゃあ、登ろう!」アキラはひかるの意見は聞かず、部屋の端っこに置いてあったアコギを肩にかけて言った。「そして、歌おう!」

 **

「おじいちゃんは癌で簡単に死んじゃったよ」アキラは大文字山を登りながら僕たちに語りかけていた。「わたしは彼と出会えてよかったなあ」

「さっき言ってた大学の先生じゃないんでしょう?」ヒカリは足元を見ながら登りつつ言った。「その先生と結婚もしなかった?」

「そう、おじいちゃんは普通のサラリーマンだったよ」アキラはヒカリを見ながら言った。「泣き虫なのは同じだったけど」

「じゃあ、妊娠はうまく進まなかったんだ」ヒカリはゆっくりと言葉を選んだ。

「うん、わたしの趣味は河原を毎日走ることだったから」アキラはそう言い、足を止めて、京都市内を見下ろした。「それがダメだったんだ」

その日アキラは河原で異変を感じ、大急ぎて近所の産科クリニックを訪れたがすでに遅かった。その日一晩だけクリニックに彼女は泊まり、翌日退院した。大学の先生は来なかったという。

「それが先生と別れた原因ではなかったけど」アキラは鞄からペットボトルを出して一口飲んだ。「それ以来、なんとなく彼は河原に来なくなっちゃったんだ」

アキラの横顔は綺麗で、ペットボトルの光の反射と対になって僕に迫った。おばあちゃん、という表現が変に思えたけれども、この美しさとおばあちゃんとペットボトルの光の組み合わせが、僕に不思議な感覚を沸き起こさせた。

「そのあとに会ったおじいちゃんは外が好きじゃなくて」アキラは再び山道を登りながら言った。「わたしたちは家で音楽ばかり聴いて過ごしたよ」

「そのギターはおじいちゃんの?」ヒカリは、アキラが背負うアコギを見て言った。「年代物っぽい」

「それが、おじいちゃんは楽器を弾かなかったのよ」アキラはヒカリを見て言った。「これは、わたしが高校時代に買ったもの。長く弾いてなかったけど、最近、50年ぶりくらいに弾いてるんだ」

3人は意外に時間をかけて大文字までたどりついた。近くで見る大文字の一つひとつの燈台は草まみれで、もうすぐ大文字焼きがあるというのにこんなので大丈夫なのかとひかるはアキラに聞いてみた。

「明日、大掃除するらしいよ」アキラは笑いながら言い、背中からアコギをグルッと回して前に持ってきた。「だから、今日来たんだ」

そして彼女は透き通るようなその声で歌い始めた。それはボプ・ディランではなく、

How does it feel to treat me like you do?
When you’ve laid your hands upon me and told me who you are?

I thought I was mistaken, I thought I heard your words
Tell me how do I feel? Tell me now, how do I feel?

ニュー・オーダーのブルーマンデーだった。

ひかるもヒカリも、昨夜カナタと夫が動画で歌ってくれたその画像を思い出し、一瞬笑いそうになったが、アキラのブルーマンデーは実に憂鬱そうで物悲しい歌だった。

I see a ship in the harbour, I can and shall obey
But if it wasn’t for your misfortune, I’d be a heavenly person today

And I thought I was mistaken, and I thought I heard you speak
Tell me, how do I feel? Tell me now, how should I feel?
Now I stand here waiting

教えてくれ、僕はどんな気分でいればいいのかを、ここで待ってるよ、

とバーナード・サムナーよりも陰鬱にかつ透き通った感じで歌うアキラのブルーマンデーは美しかった。隣のヒカリは泣いていた。

「おばあちゃん、悲しすぎるよ」ヒカリは小さい声で言った。「流れていった魂にむけて歌ったの?」

アキラはギターを弾き終え、僕たちを見て言った。「この空中のどこかに、その子も、彼もいる気がするの」

アキラは、大文字の端から京都市内を見下ろした。左のほうの遠くに京都タワー、正面少し斜めに愛宕山、意外と足元に御所がある。

遠くからこちらを見つめる愛宕山から、ひかるはなにかが光ったような気がした。彼はそんなふうにアキラに言ってみると、

「返事してくれたのかなあ」と彼女は言って笑った。

「愛宕山からのヒカリはなんだか童話みたいですね」とひかるは言ったが、言いながらも愛宕山からそれが届いたとは思えなかった。それは、反射衛星砲みたいな感じで、空のどこかから愛宕山に届き、愛宕山のどこかに設置させた反射板に跳ね返ってこちらにやってきた光のように思えた。

「反射衛星砲に一票!」アキラはウィンクしながらひかるを見て言い、笑った。「もともとは宇宙から発射されたのかなあ」

「違うよ、きっと」と言ったのはヒカリだった。「おじいちゃんと、逝ってしまったその子がいつもいる場所はきっと別にあるんだよ」

「それはどこ?」アキラはヒカリを見て言った。

「おかあさんは」とヒカリ。「こころの湖のようなものがあって、生きてる人も死んだ人も、そこにいつも足を漬けているって言ってるよ」

「幽霊なのに、足を?」アキラさんは茶化すのではなく、真面目に聞いた。「それは死後の世界みたいなのじゃくなて」

「どっちでもいいってママはいうけど」とヒカリ。

「カナタ、カッコいいな」アキラは自分の娘のカナタをこう評した。「幽霊になって行く場所じゃなくて」

ひかるはふたりの会話に挟み込むようにして言った。「そうなんです。生きてる動物も、海をただようウミガメも、みんなそこを通過するっていう」

「ウミガメ?」と反復してアキラは言い、ひかるたちを見た。「あの愛宕山にいるのは、そのウミガメの甲羅かもしれないわね。変なイマージュだけど」

 **

アキラはもう一度ギターを弾き始め、歌った。

I thought I told you to leave me when I walked down to the beach
Tell me how does it feel, when your heart grows cold
Grows cold, grows cold, grows cold, grows cold?

僕がビーチを歩いているときはそのままにしてくれって言ったよね、冷たくなる時、どんな気がする?

こころの湖から届く光は、愛宕山に隠れて住むウミガメの甲羅という反射板を経過し、ひかるたちに光のことばとして届いた。アキラの歌にはビートはなかったが、そこら中に、ニューオーダーのあの無機質でありながら冷たい生命の拍動のようなものが鳴り響いていた。

「もうやめて、おばあちゃん」と言いながらも、ヒカリは笑っていた。「わたしたち、結婚するから、許して」

「そりゃ当然」アキラはストロークをやめて僕たちを見た。白い肌と透明な輪郭に包まれたその姿は、その身体そのものが反射衛星砲の反射板のように光り輝いていた。

「こころの湖から愛宕山のウミガメ、そして大文字山のアキラおばあちゃんを反射して、最後にわたしたちに届いてくれたね」ヒカリはそう言ってアキラさんに抱きついた。

※ニューオーダー「ブルーマンデー」『Substance』London Import より


8.壺と蝶


ひかるとヒカリは再びJRで敦賀まで行き、そこから舞鶴行きの普通列車に乗り換えた。

というのも、とうとうひかるが、彼の母にヒカリを紹介する気になったからだ。

昨日、アキラの家を出て、ひかるのワンルームにヒカリと戻った時、ひかるは彼女に言ってみた。「実は、敦賀からJRで1時間のところにママはひとりで住んでるんだよ」

「ママって、先輩のママよね?  あ、ひかるの」と、ひかるのことを名前で言い換えてヒカリは言った。

「うん」ひかるは彼女に答えた。ひかるは父を2年前に癌で亡くした。父はママと年齢が20才離れていいたが、それでも62才の早逝だった。父がなんの仕事をしていたのか、ひかるは彼が死ぬまでよくわからなかったけれども、どうやらフリーライターとかNPOとかの仕事をしていたらしかった。

ひかるにとって父の仕事はあまり重要ではなく、ママと比べてだいぶ歳の離れた父が、いつもいろいろな話をしてくれた、それらのことがすべて宝物だった。

「そうよね、私もそう」と、ヒカリは言った。

ひかるの母はいつも言っていた。彼女は19才で父と出会い、20才でひかるを産んだ。そして、28才で看護師になった。

「だから、ヒカリが18才で僕と結婚しても喜んでくれると思う」ひかるはヒカリに言った。「仲間ができたって」

「お母さんのほうが私より1年遅く結婚したのね」ヒカリは車窓から外を眺めていた。舞鶴行きのJRの風景は単調な景色だった。

それから列車の天井を見ると、天井に近いところにアゲハ蝶がとまっていた。その黒は美しく、時々黒い羽をゆっくりと前後させた。

アゲハ蝶の目がその頭部のどのへんにあるのかひかるは知らなかったけれども、ゆっくり羽を前後させながら、蝶は僕らをみているように感じた。

「ゆっくりと、バラードを歌っているみたい」とヒカリは言った。

 **

ひかるのママは駅に来てくれた。そこから彼らはママのマンションへと歩いていった。途中のローソンでいろいろ買い込み、最近の政治の話なんかの雑談をしながらマンションに着いた。

そのマンションは町役場の隣にあり、ママが務める病院も窓から見えた。

「ママ、便利だね」ひかるはママを見て言った。

ひかるとヒカリはこの1ヶ月、東北や伊豆や広島や四国を旅してきて、それはたった数数週間だったのだけれども、ずいぶん時間がたったような気がしていた。ひかるは、岩手や高知に言ったことをママに告げた。

「ママ、僕はずいぶん歳をとったような気がするよ」彼はダイニングルームの椅子に座って言った。隣にヒカリも座った。

「あなたたち、結婚するんでしょ?」ママは直球で聞いてきた。

「なんでわかるの?」ひかるは驚いて聞いた。

「当然、ゴーストの囁きよ」とママは言い、ひかるもヒカリもママも大笑いした。

「その、結婚の報告だよ、ママ」ひかるはママの目を見て言った。

「ありがとう」ママは椅子から立ち、冷蔵庫を開けてワインとベルギービールを取り出し、グラスを3つ並べた。

それから彼らは、チアーズした。

「けどね、ひかる」ママはビールを一口飲んで言った。「これからあなたたちが学ぶのは、秘密と嘘の関係ね」

「お母さん、嘘ってついていいんですか?」18才らしく、ヒカリはストレートに聞いた。「わたし、いつも嘘をつきたくなるの」

「当然」もうママのグラスからベルギービールは消え、彼女は二杯目をついでいた。「私とパパなんて」

「パパって、僕の?」ひかるはついつい確認した。

「当たり前!」ママは窓から町役場を見て言った。「出会った頃、お互いの歳をごまかして言ったんだ」

「どれくらい嘘つきました?」ヒカリはワインを飲みながら、身を乗り出して聞いた。

「わたしもパパも10歳ずつサバを読んだから」ママはクスリと笑った。「わたしたち、同じ30才になったよ!」

「パパは40才で、ママは20才だったよね?」ひかるは聞いた。

「いえいえ、わたしは19才だったよ」ママは笑いながら言った。「それでね、わたしたちややこしいから歳なんて確認せず、そのまま和歌山の世界遺産に旅に出たのよ」

「いつわかったの、お互いの年?」ひかるはママに笑いながら問いかけた。

「結婚の時とかの書類でわかってたんだけど」ママはワインに換えていた。「そういえばパパが死ぬまで歳をちゃんと確認しなかったわねえ」と言って笑った。

 **

「和歌山の山の中の温泉で」ママはワインを飲んで言った。「私たちは変なお風呂に入った」

それは有名な壺型の1人用温泉で、ママとパパは熱い熱いその温泉に交代で入ったという。

「2人が入るのが限界なスペースで、鍵もかけてよかったから」ママはワイングラスを置いて言った。「なんか、そういう雰囲気になるのよ」

「でも、幽霊が出てきたりして?」ひかるはベルギービールに口をつけ、言った。

「なんでわかる?」ママはワインを置いて、我々を見た。

「わたしたちも、東北の温泉で出会ったんですよ」と言ったのはヒカリだった。「出会ったというか、私が足を引っ張られたんだけど」

そう、ひかるが岩手でバイトするヒカリを迎えにいって、帰りに立ち寄った平泉の旅館で、我々は何者かと出会ったのだった。

「それは怖いね」ママはヒカリの肩に手を置いた。

「だから、先輩の部屋に移動したんです」ヒカリはあの日を思い出したのか、少し俯いて言った。「ひかるさんは優しかった」

「ひかるも怖かったんじゃあ?」ママは僕に聞いた。

ひかるも実は足を引っ張られる感じがして、一晩中丸まって寝た。そんなふうに2人に言ってみると、ママはこう言った。

「私もね、その壺湯で溺れそうになったの」

「たぶん」とヒカリは言った。「壺は『秘密』なんだよ」

「ということは」とひかる。「『嘘』は何なんだろ?」

「私はアゲハ蝶の黒だと思う」と繋げたのはママだった。

 **

「いま思うと、壺湯がもつ秘密の感じは怖かった」ママは言った。

「たぶん、壺自体は秘密ではないんですよ」とひかるはつなげた。「秘密という何でもないことを、そんな田舎の壺が頑なに守っているなんて」

「和歌山の壺湯は不気味で」ママは真面目な顔をして言った。「恥ずかしいけど、パパが壺湯で接近してきた時、わたしは別の人に足を引っ張られそうになったよ」

「おとうさんは守ってくれました?」と素朴に聞いたのはヒカリだった。ひかるは、誰が守ったり守られたりするという言葉をその頃最も忌み嫌っていたので、それを自然に発するヒカリが不思議だった。

「実際、わたしは壺の底なし沼に入る感じだったので」ママは両肩に両腕を回して言った。「そこから引き上げてくれるのはパパしかいなかったよ」

「怖い」とヒカリは言い、ママの肩に手を置いた。

「それがわたしの『秘密』体験」ママはワインを飲み干して言った。「秘密は誰にでもあるよ」

「もう一つの『嘘』体験は?」ひかるはワインをグラスに注いで言った。「さっき言ってた年齢のこと?」

「いえいえ、嘘とは、いつも嘘をつく人をアゲハ蝶が観察してるということなんだよ」とママは言った。

ひかるは、いきなりアゲハ蝶という言葉が出てきたので驚いたが、ここに来るJRで、蝶の不思議な眼球を意識していたのでそれほど意外でもなかった。

「人は誰でも嘘をつくけど,それがどうしてか秘密になっていく」ママは言った。「わたしとパパは,そういうのがなんとなくバカバカしくて、秘密の確立を崩そうといつも努力してたよ」

「秘密と嘘って何が違うんですか?」ヒカリは声をひそめて言った。彼女はもうワインを4杯ほど飲んでいただろう。彼女は続けて言った。

「仮にわたしに隠し子がいたとして」

19才のヒカリが言う隠し子という言葉が不自然で、ひかるもママも笑ってしまった。「君は19才なんだから、いくつの時の子だ、その隠し子は?」ひかるは思わずワインを飲んで言った。

「当然、16才の時の子ども」ヒカリは真面目な顔をして言った。それは本当に、16才の時に赤ちゃんを産んだような顔だった。

「アゲハ蝶は、平然と『わたしが産んだ子ではありません』と言いなさい、と嘘を指定してくるのよ」ママは窓の外に見える勤め先の病院を見つめながら言った。「蝶にそう言われると、わたしたちは逆らえないの」

 **

なぜ、アゲハ蝶の嘘に逆らえないのだろう。ひかるは素朴な問いをママに投げかけてみた。

「そりゃあ、ひかる、絶対的な嘘が世の中には存在するからよ!」ママは何倍目かのベルギービールを飲み干した後、笑っていった。「あなただって、絶対的な嘘をときどきつくでしょ?」

「うん、犯罪的な嘘をつく」とひかるは漏らした。「時々、致命的な嘘をつくんだ」

「まだ20才くらいなのにねえ」ママはビールを飲んで言った。「ヒカリは?」

「はい、時々私も嘘をつきます」ママに聞かれて、ヒカリはしょんぼりしていた。

ひかるは何となく腹が立って、「思春期だって、嘘をつくよ!」とついついママに反論した。「汚れ切ってるけど」

 **

「ひかる、汚辱は美しいんだよ」だんだん酔っ払ってきたママの最後の言葉はそれで、グラスをテーブルに置いた後、バタンとソファにママは横になった。「適当に風呂に入ってね」

「汚辱って汚いからこそ汚辱なんじゃないかしら」ヒカリは、ママが寝た後、こんな潔癖な言葉を漏らして風呂に入りに行った。

その言葉の後、黒いアゲハ蝶がその部屋に入ってきたようにひかるは思った。その蝶には全然存在感はなかった。この存在感のない存在が,人々が何気なくつく嘘を嘘として固定し秘密にしていく。その秘密の継続が、我々に後ろめたさを抱かせる。

ひかるたち若い人々は,そうした秘密の偽善性を暴く立場にあるのだが,我々こそがいつの間にか秘密の守り人になってしまっている。

偽善を嫌い遠ざけてきたひかるたちこそが、その偽善を構築する嘘に包まれ、それを秘密化して継続させていく。

その秘密には,妊娠や裏切りなどの深刻なものが多く含まれる。だからこそ,その秘密は神聖なものとなる。嘘をつくという偽善に包まれながら,その嘘に守られた秘密は神聖化されている。

だからこそ、ある種の嘘は美しいとひかるは思う。ママはそれらの嘘を守り続け,それが同時に秘密になっている。

たぶん,40才を過ぎてはじめて、思春期が本当に終わって初めて,秘密と嘘の美しさがひかるにはわかるのだろう。

その美しさと残酷さと厳しさが。


9.バナナのねじれ


その夜はひかるとヒカリはママのマンションに泊まった。ママのいびきが隣からずっと聞こえてきていたが,ふたりはそこでまずはセックスをした。どういうわけか,その夜のセックスは、ママのいびきのリズムに盛り上げられるように、彼らとしては珍しく祭りのようなセックスになった。

「おかあさんのいびきのせいかしら」終わった後,ヒカリは服を着ながら言った。「没入してしまったよ,私,先輩」

やっぱり「先輩」という呼び名のほうが僕らに似合っているとヒカリにひかるは言ってみた。

「そうだね」ヒカリはひかるに飛び込んできて言った。「わたしにとってはやっぱり先輩だもの」

「問題は」と僕は言った。「偽善が美しいかどうか,なんだよな」

「ええ、まさに」ヒカリは深くうなづいた。

我々人間に秘密と嘘は欠かせないとして,では、いまひかるとヒカリが抱く偽善への嫌悪とどうバランスをとればいいんだろう。

「先輩,セックスも偽善なのかな」ヒカリは薄明かりの中でひかるを見つめていた。

 **

ヒカリはそのあとすぐに寝てしまい、ひかるも続けて寝たが、3時くらいに目が覚めた。

静かに眠るヒカリを横に、ひかるは、癌で死んだ父が話してくれたたくさんのことを思い出していた。

「ひかるん」と父はひかるのことを呼んでいた。「京都って幽霊が住む街なんだよ」

こんなふうに父はいつも京都のことを語っていた。幽霊の意味も僕にはよくわかっていなかったが、その言葉の響きに僕はいつも吸い寄せられた。

「パパ、パパは京都が嫌いなの?」そうひかるはストレートによく聞いた。

「嫌いであって、嫌いじゃないんだなあ」パパは、いや父は、好きな酒はひかるの前ではあまり飲まず、かわりに白湯をよく飲んでいた。「特に、白川通りがやばい」

その白川通りにひかるは今住んでいるのだから不思議だ。パパは続けて、白川通りでの失敗について繰り返し語った。

「パパがね、北白川の王将で餃子を食べてた時に」ひかるを連れて王将に入っている時に、父はよくこの餃子の話をした。「ロンドンから電話があって」

食べかけの餃子をカウンターに置いたまま父は店外に出て、そのロンドンからの電話に対応したエピソードは彼の定番だった。

ロンドンからの電話は、父にとって生涯一度きりのもので、とても大切な思い出のようだった。けれどもその話を父は誰にも話さず、幼少期のひかるにだけこっそりと話していたことを死の床の中のパパから最後に僕は聞いた。

「だってひかるん、そんなの恥ずかしいじゃないか」癌でやせ細った父はへへへと笑いながら、照れた。「オトコのあがきというか、妄想だよ」

10代前半のひかるにはそのへへへな感じがとても不思議だったものの、父がひかるにだけ気を許してくれていたことは嬉しかった。その気分のまま、死の床の父にそのロンドンからの電話はどういうものだったのか、初めて聞いてみた。

「それがね、ひかるん」父は僕をまっすぐ見て言った。「ロンドンのその元彼女が、その時の彼氏、今は結婚してるんだろうけど、その彼氏との間に子どもを妊娠したっていうんだよ」

「わざわざロンドンから電話でそれを?」ひかるは父に聞いた。なんとなく嘘っぽく聞こえたからだ。

「嘘じゃなさそうだった」父は微笑んだ。病床の父はテレパシーが使えるようで、僕がいちいち返事しなくても、僕が考えていることによく答えてくれた。「けど、古い時代だけどメールは存在したし、わざわざそれを電話で伝えるか? と俺も思った」

「よほど伝えたかったんだね」ひかるは父の手を握って言った。「もしかして、パパの病気のこと、パパがメールしてたんじゃ?」

「当たり!」父はひかるの手をぎゅっと握り返した。「ママには悪いと思ったけど、そんな超迷惑な遺言メールを元カノに送るのがパパなんだよ、おまえの」

「パパには悪いけど、パパ、最低」ひかるは笑いながら言った。

「そうだろ? 最低だろう?」末期の癌だというのに、彼は余裕の皮肉の笑みでゲラゲラ笑った。ひかるはそんな父を尊敬していた。

父は続けて言った。

「実は、俺とその元カノは結婚する予定だったんだけど、元カノが流産してしまって、結婚もオジャンになったんだよ」

 **

だからか、だから、その元カノさんは、父の末期に、自分に宿った新しい魂について肉声で報告してきたのか。

僕が父にそう言ってみると、

「そう、その流産は我々だけの秘密だった」父は珍しく沈んだ表情になった。末期の癌で1週間以内にも死ぬはずの彼はでも、いつも冗談ばかりを言っていた。だからなおさら、その沈んだ表情が僕には印象的だった。「それ以来、実はパパは、たましいのようなかたちを信じるようになっちゃった」

「たましいって、幽霊?」ひかるは素朴に聞いてみた。そして、いや、違うか、と続けて思った。

「そう、違うんだよ」父はテレパシーを使ってひかるの心を読み、答えた。「幽霊にはキャラがあるけど、たましいのキャラ性は薄い」

「キャラ?」ひかるは聞き返した。じゃあ、幽霊はある程度大人になり自我完成に辿り着いた元人間がなるもので、たましいは同じ元人間でも自我形成以前の存在、つまりは胎児のような存在が変換したもの?

「あえて説明するとそういうことだな」末期癌の父は聞き返す力が残っていないのか、テレパシー中心のコミュニケーションに移行したようだった。「その流れてしまった胎児のたましいは、実は最近までパパと一緒にいた」

「あ、けど、その元カノさんからの電話がきっかけで消えていった?」ひかるは反射的に答えた。そのたましいが行った先は天国?  極楽?

「どっちでもないだろな」父はひかるの心を読み取って答えた。その表情には少し明るさが戻っていた。「俺は、バナナ穴に戻ったと解釈している」

「ええっ?  サリンジャーの?」ひかるは驚いて答えた。当時中学生だったひかるは、読んだばかりのサリンジャーのその短編がわからなくて、父にその意味を何度も聞いていた。けれども父は教えてくれなかった。それをいま言うか?

「いま言うのが俺なんだよ、へへへ」父は完全にいつものペースを取り戻していた。また、癌の痛み止めの点滴が効いてきたのか、少し眠そうでもあった。

「パパ、少し寝よう」ひかるはそう提案した。1日でも長く生きていてほしいんだよ、僕は。

「いや、いま寝たらそのままマジで死ぬような気もするので、もうちょっとがんばる」とテレパシーでひかるの心を読んだあと、言葉で返した。「ひかるんもテレパシーができたらいいのになあ。実際にしゃべるのは疲れる」

 **

「バナナ穴は、たぶん偽善の象徴なんだよ」父は続けて言った。「だからその時一緒にフロリダの浜辺で遊んでいた小さな子どもがシーモアに向かって『バナナ穴が見えた』って、シーモアのご機嫌取りをした瞬間、シーモアは子どもという最後の希望にまで裏切られた感じがしたんだろうな」

パパは長くしゃべった。パパは、バナナ穴についてのひかるの執拗な問いに、いま初めて答えてくれようとしていた。まるで遺言のように。そう考えるとひかるは、パパの前で泣いてしまった。

「遺言じゃないよ、ひかるん」パパはひかるの頭を撫でてくれた。「おまえが、純粋さと汚れとの間でやがて苦しむようになった時、この話を覚えていてくれればいいんだ。あ、これって遺言か!」と父は小さな声で笑った。

このユーモアが、ひかるは大好きだった。ひかるにはなぜか反抗期はなく、パパに頭を撫でられるのが好きな変な中学生だった。

「けどパパが思うには」点滴が効いてきた父はいよいよ眠そうだった。「バナナ穴は偽善と汚れの象徴ではなく」と、小さいけれどもよく聞こえるその不思議な声で僕に言った。「穴の中は汚れているというよりは、腐る寸前のバナナのように、一見腐っているようで実は美味しいというか、そんなおもしろい感じなんだよ、実は」

腐る寸前のバナナって、つまりは汚れの象徴では?  とひかるは言いかけたけれどもやめた。が、テレパシー使いのパパには無駄だった。

「ひかるん、お前、腐る寸前のバナナを食べたことないだろ?」パパは少しムッとしていた。「案外いけるんだぞ」

「パパ、見た目は汚れてるけど実は美味しい、そのねじれがおもしろいんだよね、バナナ穴は?」ひかるはパパを寝かせようと思い、会話のまとめに入った。

「そうだな、ポイントはひかるの言うねじれだな」父も諦めかけたのか、会話を終わらせようとした。「でも、そのねじれのおもしろさに気づけないんだよ、シーモアみたいな人間は」

そう言ったあと、父はすぐにイビキをかき始めた。

ひかるは、今の今ままで、ずいぶん前に父と交わしたこの会話のことを忘れていた。いま、それを思い出したのだが、それでも謎は残っていた。

キャラ性の薄い胎児のたましいが、既存の天国や極楽ではなくバナナ穴を選ぶのはなぜなんだろう?  キャラを持たなかったそのたましいにとって、一見腐りながらも実は美味なねじれたバナナ穴は快適なのだろうか。そのバナナ穴のねじれを享受できるのは、むしろ汚れきった大人たちだけなのではないだろうか。

夜が明けてきた。明けない夜はない。ベッドではヒカリが静かに眠っていた。ひかるは、あのパパとの会話の際、思わず泣いてしまった自分を思い出した。それは、パパがあの少し小さめの手でひかるの頭を撫でてくれたからだった。

ひかるはベッドに座り、ヒカリの髪を撫でた。今度は彼が頭を撫でる側なのだが、泣き虫のひかるはまた泣いてしまった。

「泣き虫の先輩には、朝日がよく似合うね」ヒカリは、笑ってひかるを見た。彼女は見ただけだけど、彼にはそう聞こえたような気がした。だからひかるはそのまま泣きながら、

「明けない夜はない」と紋切的なセリフを思念してみた。

「うん、ないよ、先輩」今度はヒカリは声に出して言い、笑った。


10.ヤマネコの水晶


翌朝、ママに別れを告げ、ひかるとヒカリは京都に帰った。京都に戻ったあと、再び左京区のアキラのもとを訪ねた。アキラの家はひかるたちの部屋のすぐ近くなので、気軽に行くことができた。

アキラは今度は歌は歌っておらず、黙ってDVDの映画を見ていた。ヴィスコンティの『ヤマネコ』だった。

「死んだおじいちゃんと西表島に新婚旅行に行った時」と、アキラは物憂げに言った。「イリオモテヤマネコを見た気がしたんだよね」

「あ、それ知ってる」と反応したのはヒカリだった。「お母さんから聞いたことがある」

「あれは本当にイリオモテヤマネコだったかどうかは今もわからないんだけど」とアキラは小さく言った。「月を背負ったあの大きな姿が今も忘れられなくて」

「おばあちゃん、おじいちゃんはそのあと、おばあちゃんの手のひらにまだ生まれていなかったママの似顔絵を指で描いたんでしょう?」とヒカリは言った。「掌のスターチャイルドって、素敵」

「おじいちゃんって、そんなところがあったよ」とアキラはつぶやいた。「でも、若い頃の私は、イリオモテヤマネコとスターチャイルドの組み合わせが妙にロマンチックで、その時から本当におじいちゃんを好きになった。平凡な人だったけど」

「もしかして」と、ひかるはアキラに言ってみた。テレビでは、『山猫』のアラン・ドロンが汗だくになって走っていた。「そのあとも、ヤマネコに会ったのでは?」

アキラはびっくりして、背筋を伸ばしてひかるを見て言った。「どうしてそれがわかるの?」

「そんな目で、アキラさんがテレビを見ているように感じたんです」とひかるは言った。「次のヤマネコとの出会いが、何か決定的だったような気がしたんです」

「そう、あれがあったから私たちはあの人が死ぬまで続いた」とアキラはテレビのバート・ランカスターを見ながら言った。アラン・ドロンはすでに走り去っていた。

 **

アキラたちはその後、西表島を訪れることはなかったので、2度目に見たそれはイリオモテヤマネコではなかった。対馬も彼女らは訪れなかったため、ツシマヤマネコに会うこともなかった。

アキラが見たそれは、西表島でも対馬でもなく、アキラのふだんの生活に何気なく侵入してきたそうだ。

「ヤマネコは」とアキラはいった。「わたしたちの関係に緊張が走った時、さりげなく現れるのよ」

「わたしたちって、おばあちゃんとおじいちゃんね」とヒカリは確認した。

「そう、わたしたち、ふだんはあまり喧嘩しなかったんだけど」とアキラはヒカリを見て言った。「時々ことばがすれ違った時とかに」

「ヤマネコは現れる」とひかるは言ってしまった。「それはたぶん幻影ではなく、2人の間に突然現れるんですよね?」

「そう、あれは幻かもしれないけど、普通の幻影でもない。わたしたちが同時に病気になっているのでもない」アキラはひかるの目を見て言った。

「僕も実は、ヒカリとシリアスな話をする時なんかにその存在を感じるんです」それはアキラに合わせた話でもなかった。少し前からひかるは、ヒカリとの間で喧嘩のような雰囲気になった時、そんな存在が彼らの間に現れて、その喧嘩がエスカレートするのを止めてくれているような感じがしていた。

そのことをアキラに言ってみると、彼女が答える前に、ヒカリが、

「わたしも」

と言って笑った。ヒカリは続けて、「『バカらしい喧嘩なんてするなよ』ってそこに充満する酸素が語りかけてくるような気がするの」

「酸素?」と言って笑ったのは、アキラとひかるの2人同時だった。

「確かにあの存在は酸素っぽいよ」アキラは笑い終わった後に言った。「空気なんていう意味の広いものではなく、空気に21%含まれる酸素なんだよね」

「21%って、おばあちゃん、よく覚えてるなあ」ヒカリは笑いながら言った。

「新婚旅行から帰ってきて」とアキラは続けた。「新しい家に私たちは住み始めて、すぐにいろいろぶつかっちゃったよ」

「一緒に住むって怖い」とヒカリは言った。「今はまだお互いの部屋を行き来してるだけだけど」

ひかるもそれは同じ思いだった。たぶん一緒に住むと、毎日彼らは喧嘩するだろう。

「そんな時よ」とアキラは瞬時に言った。「わたしたちの間に、ヤマネコが現れて、わたしたちを憐れみの目で見るの」

「ヤマネコが僕達に同情しているんですか」とひかるは聞いた。

「ヤマネコのほうが人間よりも偉いっぽいもんね」ヒカリは真面目な顔をしてつぶやいた。

「ヤマネコの目は大きな水晶みたいに感じるの」アキラは真剣な表情で言った。「そこにヤマネコはいるんだけど、その目そのものはヤマネコよりも大きくて、巨大な水晶になってわたしたちを包み込む」

 **

ヤマネコの目に目つめられながらそれは同時に巨大な水晶でもあり、その煌めきに包み込まれそうになる。

「その感じ、よくわかる」とひかるはつぶやいた。「僕らの平凡な日常の中に、その煌めきが侵入してくるんですよね」

「まさにその通り」アキラは少し笑って応えてくれた。「それが酸素そのものなのよ」

「わたしたちの平凡な日常に、そんな水晶がどうして紛れ込むんでしょう?」ヒカリは不思議そうに言った。「少しくらい喧嘩した程度で」

「ヤマネコは」とアキラは言った。「日常の喧嘩を馬鹿にするなよって言ってるのかしら」

ひかるはその時、変な圧力を感じた。透明で無臭なんだけど、なんとなく真冬のコートのように僕をそれは包み込んでいた。そう、それはまるで酸素のように。

その感じを僕はアキラに言ってみた。すると彼女は、

「あ、どうやらヤマネコの目の水晶が、今、わたしたちを包み込んでいるんだよ」と言って、顔をキョロキョロさせた。「わたしたちに、今も喧嘩するなって言ってるんだよ」

「喧嘩なんて大したことないのに」相変わらず持論をヒカリはつぶやいた。

「喧嘩する暇があったら」とアキラは言った。「わたしたちに、毎日のわたしたちをもっと見ろとヤマネコは言ってるんだよ」

ひかるの身体を包み込む真冬のコートは、酸素でもあり水晶でもあったけれども、どちらにしろ透明だった。その透明のエネルギー体がひかるに語りかけてきた。

「ヤマネコの目は僕にこう言ってます」少し笑ってひかるは言った。「酸素をもっともっと吸えって」

「どういう意味なんだろ」と言って、アキラは笑った。

「だから」とヒカリは言った。「酸素を吸って、わたしたちに水晶になれって言ってるんだよ!」

「まさか!」とひかるとアキラは叫んだが、その水晶と酸素というイメージに圧倒されていたのも事実だった。

「たくさんイメージが溢れ出してるね」ヒカリは、ひかるとアキラを見て笑った。


11.雨粒


ひかるとヒカリは午後遅くアキラさんの家を出たが、そのままそれぞれの部屋に戻るのもなんとなくためらった。

「京都のどこかに行こうよ、先輩」ヒカリは時々以前のように先輩とひかるを呼んだけれども、彼は気にはならなかった。「先輩と今、結婚したいよ」

ヒカリにそう言われて、ひかるもまったくその通りだと思った。この夏たくさん旅をしてきて、カナタやアキラ、そしてひかるのママにも直接出会って話し合い、すべてはそこに向かっていると実感した。

「了解!」とひかるも笑って答えた。「今日、今から一気に結婚しよう」

「とは言っても、教会とかめんどくさいなあ」ヒカリはひかる以上のめんどくさがり屋だった。「とは言っても、役所に結婚届は明日でも提出できるし」

「そうだ!」とひかるは言った。「哲学の道で結婚を誓いあおう」

「いつも行ってるところだなあ」ヒカリは大きな声で笑ったあと、やさしくつぶやいた。「オッケー、哲学の先人たちに祝福してもらいましょう」

「先人って?」ひかるは哲学の道の近所に住んではいたが、具体的な哲学者のことはあまり知らなかった。

「わたしも、知らない」ヒカリはまた大笑いして僕の手をとった。

ひかるたちがいるそこから、哲学の道は白川通を渡ってすぐのところにあった。

「ま、いいか」とひかるは言い、白川通を渡って哲学の道へと彼らは歩いた。

 **

予想通り哲学の道は観光客だらけだった。ひかるとヒカリは相談していつもの蕎麦屋に入ることにした。その古い蕎麦屋は地元の常連客だけしかおらず、その日も数組の中年客がいるのみだった。

ひかるはなんとなく、「結婚するんだし、良いか」とヒカリに言って、熱燗を一合つけてもらった。

「良いよ、良いよ」ヒカリはそう言ってお猪口を両手で持った。「鬼平犯科帳風に結婚しましょう」

「ここは江戸ではなく、京だけど」とひかるは言って、2人でチアーズした。

「僕たちに」

「わたしとひかるに」とヒカリ。

「ありがとう、ヒカリと僕に」

鬼平風の猪口には、伏見の安酒が並々と注がれ、その安い感じが今のひかるたちになんとなくふさわしい、伏見・中書島の酒蔵たちも喜んでくれているよと、ひかるは言った。

「ひかる」と、今度は名前で彼のことをヒカリは呼んだ。「さっきおばあちゃんのところで話が出た、一緒に住むと、わたしたちはすぐに喧嘩しちゃうのかしら」

「するだろうなあ」ひかるはお酒を一口飲んでいった。「こうやって僕たちが会うことが、旅行や結婚式ではなく、毎日の当たり前になるんだろうから」

「何かが許せなくなるのかしら」ヒカリも猪口から一口飲んで言った。「だから人々は、喧嘩をするのが嫌で、セックスしたり子どもをつくったりするのかしら」

「そのへんは成り行きのカップルも多いんだろうけど」ひかるは、蕎麦屋の外を歩く大勢の観光客達を見ながら言った。「喧嘩もセックスも日常なんだろうね」

「ごめん、先輩、そういうのはなんとなくツマラナイよ、わたし」ヒカリは猪口に酒を注ぎながら言った。「結婚って、そういうこと?」

「違うと思う」ひかるももう一杯注ぎ、熱燗のお代わりといなり寿司を注文した後に言った。「我々は、まったく新しい毎日をそれぞれが見つけるために、結婚という儀式を通過するんだと思う」

それはまったくの思いつきだったのではあるが、言った後、ひかるは自分でも変に納得してしまった。

「先輩、哲学者みたいだよ」とヒカリは言った後、テーブルに置いたひかるの猪口に自分の猪口を軽く合わせ、

「よろしくお願いします」

と言った。

 **

ふたりは結婚し、1人か2人の子どもをつくり、毎日必死に勉強し、学生の間はそれぞれの親に養ってもらい、卒業した後は必死に働いて親に恩返しし、そしてふたりの毎日も徐々に徐々につまらなくなり、というイメージをひかるは抱くのを拒否している、とヒカリに彼は言った。

「わたしが描く、毎日の新しさは」とヒカリは言って、伝票を持って立った。「先輩、哲学の道をイヤホンをして歩こう」

支払いはヒカリが済ませ、ひかるが礼を言っている間、彼女は自分のイヤホンをひかるの耳につけた。それはワイヤレスだったので、ふたりがコードでつながることはなかった。

彼女は鞄からもう1組のイヤホンを取り出し、自分の耳につけた。そして鞄から2つのiPhoneを取り出して、ほぼ同時に音楽をかけた。

彼女は、iPhoneのひとつを僕のポケットに入れた。

ひかるの耳は、ヒカリがかけた音楽と、ノイズキャンセルが強力にかかった閉鎖された音空間と、なぜかヒカリが小さく息する音を意識することができた。

「iPhoneのマイクが私の声を拾ってるんだよ、先輩」と同時に、彼女はひかるの手を強く握った。音全体が閉じてしまった奇妙な静寂の中に、誰かの演奏するジャズ、そしてヒカリが息する音が空間を満たしていた。

視覚には、哲学の道を歩く大勢の観光客が映し出されていた。ひかるはその奇妙な感じを、イヤホン・マイクを通してヒカリに言ってみた。

「僕らは、地球のキョウトに堕ちてきた異星人みたいだ」

「デビッド・ボウイみたいですね」とヒカリは言った。

そう言われてひかるは、数日前までそこにいたフジロックフェスティバルを思い出し、京都にいるヒカリとiPhoneで交わしたやりとりを思い出した。そして、ヒカリがこう書いたことも。

【「And the stars look very different today こちらは多くの星が見えています、それは地上から見るのとはまったく違います。あ、今日はわたしが少佐になったよ、先輩!」】

 **

「酸素」と、ひかるは、昼間のアキラとの会話を思い出してワイヤレスイヤホンにつぶやいた。

「空気じゃなくて」ヒカリもイヤホンにつぶやいた。音楽はいつのまか止んでいる。イヤホンを通してふたりの耳に届くのは、互いの囁き声と、ノイズキャンセリングでもキャンセルしきれない、哲学の道を歩く観光客たちの遠い喧騒だ。

「ヤマネコの水晶」と、次にひかるはつぶやいた。アキラと亡き夫との間で共有するイメージだ。

「わたしたちがおじさんとおばさんになっても」ヒカリはひかるの手を握っていった。「酸素や水晶は見えるのかしら」

「たぶん、それとも違うんだと思うよ」ひかるはまた直感的にイヤホンに囁いた。「昨日のずっと前から、そして結婚を誓った今日とこの先数年も、またおじさんとおばさんになった何十年も先も」

と、そこまでひかるが言った時、哲学の道に雨が降り始めた。

その雨は急で、小雨の段階が短い、いきなりの本格的雨だった。

仕方なく、ひかるもヒカリも雨に晒されてしまった。

「音は大丈夫。イヤホンは防水なんだよ」ヒカリは上を向いて言った。

「この雨粒のように」今日のひかるは珍しく冴えていた。「毎秒毎に、僕たちを濡らし、包み込むんだよ」

「何を?」ヒカリは雨に濡れて嬉しそうだった。「あ、わたしたちふたりの、すべての瞬間か!」

「たぶん、雨粒は僕らを守り、いつのまか僕らのすべての時間を守ってくれてるんじゃないかなあ」やはり、今日のひかるは冴えていた。

ヒカリは自分とひかるのイヤホンを外してバッグに入れ、哲学の道の真ん中で彼にキスした。ひかるもそれに応じ、周辺の観光客は無視して全員が通り過ぎたが、空から落ちてくる雨粒は、その一粒一粒がチアーズと言って笑ってふたりの足元に落ちていった。

















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