パーフェクト・デイ
大学に入ることができたカナタは高校の知り合いたち全員と離れることができ、大学で先輩とも出会うことができ、ずいぶん毎日がおだやかになってきた。大学ではほかにも話し相手ができたものの、高校の頃のことは友だちにも先輩にも話していなかった。
その日の朝、高3のカナタは、旅行鞄に3泊分の着替えを詰め込み、最寄りの駅まで自転車でなんとかたどり着いた。鞄を抱え、それとは別にリュックを背負い、自転車置き場から改札へカナタは歩いていった。
気分は重かった。いつもの改札口がいつもより狭くなっているように感じた。いつもの定期券も少し重くなったように感じた。
自動改札の手前で、大きな猫柄の鞄を持つ中年女性がいた。その鞄には猫の絵が描かれているだけではなく、鞄の中から本当に猫の鳴き声がした。
女性は、「黙って、お願い」と鞄に向かって語りかけていた。だが鞄からはか細い猫の鳴き声が響いていた。
女性はそのまま改札に入るかどうか迷っていた。このままではすぐに電車には乗れない。女性は猫柄鞄を持ったままベンチに座り、鞄の外から話しかけている。「このままだったらお家に帰らなくちゃいけないよ」
カナタはその女性と猫柄鞄をずっと見ていた。それだけ改札の手前で猫の声が響いていて気になったというのもあったが、その猫の声がカナタに「改札に入らなくてもいいんだよ」と語りかけている気がしたのだ。
「お腹空いてるのかも」とカナタは女性に話しかけた。
「朝早かったけど、しっかり食べてたのよねえ」と女性は答える。不思議と、動物や赤ちゃんが間に入ると、知らない人同士でも話し合えるものだ、とカナタは思った。
「わたし、スルメを持ってた」とカナタはおやつが入った袋からスルメを取り出した。「こんなの食べるのかしら」
「まだスルメを食べるのは見たことないけど」と女性は笑って答え、「どれ、試しに食べさせようか?」
女性が鞄を開けると、トラ猫が首だけ出した。「あ、それ以上はだめよ、トロオちゃん!」
「トロ?」とカナタは聞いた。
「トロオなの。変わっているでしょ?」と女性は笑いながらカナタからもらったスルメを猫のトロオに差し出した。
トロオは目を細めてスルメの匂いをかぎ、慎重にそれをくわえてみた。
可もなく不可もなく、まあまあの味だな、という感じで、トロオは飼い主の女性を見上げた。
「偉そうだけどかわいいですね」とカナタは言った。
「そうなのよ、トロオちゃん、もう15才なのよ」と女性。
「なぜ改札に入りたくなかったのかな」とカナタは聞いてみた。
「そうねえ、たぶん」女性はトロオが鞄から飛び出ないよう、再びファスナーを閉めた。「電車に乗りたくなかったんじゃないかな。そんな子なんです」
カナタは、もう猫柄の鞄に収まってしまった猫のトロオの表情を想像した。トロオは偉そうに爪の間を舐めているのではないかと想像した。さっきまであれほど鳴いていたトロオは鞄の中では静かになっていた。
「あら、スルメが効いた!」と女性は笑った。「そういうことなのね、今日は電車に乗る日じゃなかったのよ」
女性はベンチから立ち、駅とは別の方向に歩き始めた。
「どこへ行くんですか?」とカナタは聞いた。
「イオンにでも行って、上等の缶詰を買ってあげようかなあ」と女性は答えた。「スルメ、ありがとう」
そのあと、カナタも、駅のコインロッカーに大きな旅行鞄を詰め込んで自転車置き場に戻り、再びその古びた自転車を発車させた。
その日からの修学旅行を、こうしてカナタはやめることにした。
※※※
旅行鞄がなくなったので、自転車は少し軽くなった。カナタは、高校とは反対側の方向へ、国道の端を自転車で進んだ。高校方面から逆に行くと、その国道はすぐに海岸にぶつかり、左に海を見ながら延々ワインディングロードが続いていた。
車は少なかったものの、風が強かった。こんな「逃避キャラ」は自分ではなく母のアキラだったのだが、カナタは修学旅行に行くよりはマシだと思っていた。
なぜわたしはこんなに修学旅行がいやなんだろう。
カナタは独り言を漏らした。自転車を漕ぎながら考えたものの、はっきりとした答えは見つからなかった。確かに先生も友だちも嫌いだけど。
高校の一大行事である修学旅行を休むほどの理由にはならない。管理されたスケジュールは心底いやだったし、友だちとのワンパターンの会話にも吐き気はした。だが、客観的には優等生のカナタが、2年以上に渡って耐えることのできたそれらの腐敗したシステムと人物たちを、たった3泊4日くらい我慢できなくなるとは自分でも信じられなかった。
そんなふうに修学旅行をパスしてしまうと、たぶん今日の午前には家か母の携帯に学校から連絡が入る。すると、母や父は心配するだろう。
とは思いつつ、自転車をカナタは止めることができなかった。
「あのトロオちゃんという猫も」とカナタはクスリと笑いながら言った。「いやなことには自己主張した」
わたしも。
カナタは自転車を漕ぎながら声に出してみた。「わたしも」
その声は少し自信がなさそうな細いものだったが、落ち着き始めていた。大型トラックがカナタの横を猛スピードで追い抜いた時も、
「なんだよ!」
と叫びながら、彼女はペダルに力をこめた。その力は、猫のトロオちゃんからのプレゼントのような気もした。
※※※
海沿いに大きな食堂があり、そこは観光名所らしく、何台も車が行列になっていた。カナタはその駐車場に自転車を停めて、少し休むことにした。
おやつ袋から朝のスルメを取り出して、口に入れてみた。塩っ気が絶妙で、これはトロオちゃんの機嫌もなおるわけだ。
人間に慣れている白い鳥たちがカナタのそばに5〜6羽近寄ってきた。スルメを鳥に差し出す気分にもなれず、カナタはそれらのトリが鳴きわめくのを傍観していた。
すると、観光客らしい家族が何組かその鳥たちに近づいてきた。鳥は自分たちに近づく人間を見ると大喜びで、だみ声で鳴き続けた。
家族の中の、幼稚園児らしき女の子が、鳥に話しかけている。
「カモメさんだよね?」白い鳥たちは子どもから2メートル程度離れた防波堤の上に並んでいた。「カモメさんだよね?」
横にいた母親らしき女性が、「カモメはね」と言った。「カモメはね、ゆっくり話しかけると人間が何を言ってるのかわかるんだよ」
「知ってるよ」と女の子は答えた。だが、そこから続かず、困った表情を浮かべ、母親を見返した。
「カモメさん、どこに行くの?」と聞いてごらんよ。母親らしき若い女は子どもに向かって答えた。「カモメさん、どこ行くの?」
「ああ、わたしが言うから!」女の子は母を制し、母と同じように聞いてみた。
「カモメさん、どこ行くの?」
母と娘は白い鳥たちからの返答をしばらく待っていた。最初にしゃべったのは母のほうだった。
「聞こえた?」母親らしい女性は笑っている。すると、その子どもは、
「聞こえたよ!」と大きな声で答えた。
母親はクスクス笑いながら、「なんて答えた、カモメさんは?」と聞いた。
女の子は、「ディズニーランドへ帰るんだって」と答えた。
そうしたやりとりをすぐ近くで聞いていた17才のカナタは、吐き気がした。
そして、目に涙が浮かんできた。口に含んだスルメのしょっぱさが痛いような気がした。
彼女は、「だからわたしは逃げてるんだな」と漏らし、大急ぎで自転車に再び乗ってその場所を離れた。
※※※
それからまた1時間自転車を漕ぐと、巨大な橋がカナタの目の前に現れた。カナタは自転車を停め、遅めのランチをとった。母のアキラが修学旅行のバスの中でとつくってくれた弁当だった。
先ほどの気分の落ち込みも、その弁当の味と目の前の巨大な橋の光景によって救われていた。
白い鳥と少女と若い母のやりとりのどこに吐き気がしてどこに泣きそうな気がしたのか、カナタにはわからなかった。だが、あの時あの場所をすぐに離れたのは正解だった。
ああした光景は今のわたしには毒だとすると、当然のことながら学校はもっと猛毒なので、じゃあわたしはどこに行ったらいいんだろう? とカナタは思った。一般的な居場所はわたしにとっては毒や猛毒だったりする。じゃあわたしはこの先、どこに安住することができるんだろう?
カナタはその場所で、考えたりコーヒーを飲んだり残りのスルメをかじったりしながら(携帯にも文字を打ち込んだりしながら)夕方近くまで過ごした。結局、帰る場所は家しかなく、再び2時間自転車を漕いで帰ると、もう暗くなっていた。家に近づくと、いつもより人が集まっており、カナタを発見したとたん歓声が沸き起こった。母にはずいぶん叱られ、父は泣いていた。
それから3日間、カナタはいつものように高校に通い、図書館でひとり自習をした。その自習した長い長い時間よりも、カモメと少女と若い母親から一生懸命逃げた1時間のほうが何十倍も長く感じた、と19才のカナタは、いま思う。本当に変な1日だったな。
明日、その変な1日について、先輩にがんばって話してみよう。人に話すのは初めてだけど。