洗面器で手をつないで
延々こだまに乗ってきて、名古屋を過ぎた頃、ふたりの間で「もう一泊したいね」という話がわきおこり、じゃあどこで? となった時、「長浜はどう?」と先輩が言った。
こだまは米原に停車する。新幹線をそこで降り、長浜には在来線ですぐそこだ。先輩が示すiPadをふたりは見ながら、
「長浜から島に行ける、行きたい」
ということで一致した。
長浜から船で30分程のその小島には小さな社があった。ヒカリはまだ行ったことがなかった。先輩は対岸の今津から一度行ったことがあるらしいが、長浜からは未経験だった。
ふたりはまだ京都に帰りたくなかった。なんでもいいから時間稼ぎをしたかったので、その小島行きは、ふたりにとってはついつい飛びついてしまう計画になった。
長浜に着いたのはもう夕方近かった。その観光地を歩くこともなく、当日予約したビジネスホテルへとふたりは向かった。
そこでまたトンカツをふたりは食べたが、また何の疑問も抱かずそれをすべて食べた。新幹線のこだまで移動してきたふたりの身体には疲れがたまっていた。翌朝はやく小島に渡る予定だったので、その夜はふたりとも風呂に入ってそれぞれの部屋で早々に寝た。
朝、船着き場にふたりが着くと、小島行きの船がすでにスタンバイしていた。乗客はふたりだけだった。時間になり、船は小島に向かった。
琵琶湖は煌めいていた。波は湖の波で音もないのに、音があるように感じた。ヒカリも先輩も船のデッキに出て、太陽の光をたくさん浴びた。先輩もヒカリも、最近抱いたことのない解放感を得た。
すぐに船は小島に着いた。船は折り返して長浜に戻ったので、いま、有名なその小島にいるのは、ヒカリと先輩だけだった。
「やっぱりなにもない」と先輩は笑いながらつぶやいた。
「そうですねえ」とヒカリ。彼女はでも、先輩の手を握り、すぐそこに見える神社へと導いた。
階段を何段か登ると、すぐに神社に着いた。目の前にある手水舎で手を洗おうとふたりは思ったが、あいにく手水舎は割れて、壊れていた。だからそこには水は溜まっていない。
「隣に洗面器があるな」と先輩は笑った。
見ると、割れた手水舎の横に、いかにもという感じで、銭湯にあるような洗面器が適当に置かれていた。
「ここで洗えと?」ヒカリは洗面器を睨んで言った。
「そう、洗うんだよ、たぶん」先輩は笑っていた。
ふたりは、壊れた手水舎の横にある洗面器に手をつけた。どちらが先に手をつけたかはわからないくらい、同時に手をつけた。
**
「先輩」とヒカリは言った。「わたしは先輩のことが好きなんです」
「僕も」と先輩が言った。「ヒカリを僕は好きなんだ」
ふたりは、神社の手前にある手水舎の、その横に置いてあった洗面器に手をつけていた。そこに手をつけ、洗面器から手を出してハンカチで拭いて神社に向かう予定だった。
だが予定が狂い、洗面器がふたりの手を捉えてしまった。それどころか、洗面器はふたりから主語を奪った。
「わたしは」と、先輩はヒカリのようにしゃべった。
「僕は」と、ヒカリは先輩のようにしゃべった。
琵琶湖の小島の壊れた手水舎が、ふたりから主語を奪ってしまった。
「あれれ」とふたりは言った。「まさか、入れ替わったわけではないでしょ?」
入れ替わったわけではなかった。ただ、その小島の古い洗面器が、ふたりをつなげてしまったのだった。
「たぶん」とヒカリは言った。「わたしたち、つながってしまったんです」
「ああ、なるほど」と先輩。「物理的にシンクロしたのかなあ」
「物理的シンクロって、こんな感じなんでしょうか」とヒカリは言った。そして笑った。「わたしたちの手はつながっているけど」
「なんだか僕はヒカリの気持ちがわかるような気がしてきたよ」と先輩は言った。「ヒカリは、僕に抵抗がないのだろうか」
「はい、ありません」とヒカリは言った。「わたしも、先輩の気持ちがわかるような気がするよ」
「僕には抵抗があるのだろうか」と先輩。
「はい、抵抗だらけですよ、先輩」ヒカリはくすっと笑った。「どれだけ自分を守ってるんだ? 」
「苦労してきたんだよ」と先輩は照れた。
「どうして苦労してきたのかしら? 」とヒカリは聞いた。「なんとなくわかるような気もするけど」
「そう、君はわかっていると思うよ」と先輩は言った。「僕も、君の苦労がわかるような気がする」
物理的には、ふたりは汚れた洗面器に手をつけて黙っていた。黙ってはいたが、それらの声がその小島に響き渡っていた。
「わたしたちの声って」とヒカリは言った。「この島でエコーしているのかしら」
**
洗面器に手をつけたふたりは、こころもつながった気になった。
「ヒカリの声がどうして聞こえるんだろう」と先輩。「心地いいけど」
「わたしも」とヒカリ。そして、「先輩、手をつなぎましょう」と続けた。
ふたりの手はそれまで、洗面器につけてはいたが、離れていた。それが、ヒカリの提案と同時に接近してきた、ふたりの手は重ね合わされた。小さいヒカリの手が大きい先輩の手に包まれるような感じになった。
「やっとつながったね」とヒカリ。
「よかった」と先輩。
そしてふたりは、
「わたしは先輩のことが好きなんです」と言い、
「僕もヒカリが好きなんだ」
と言えたのだった。
もう、僕、も、わたし、も関係ないエリアにふたりはいた。ふたりは、その時、こころの湖で会話していた。ふたりは、こころの湖で手をつなぐことができた。