バナナのねじれ
その夜は僕とヒカリはママのマンションに泊まった。ママのいびきが隣からずっと聞こえてきていたが,僕らはそこでまずはセックスをした。どういうわけか,その夜のセックスは、ママのいびきのリズムに盛り上げられるように、我々としては珍しく祭りのようなセックスになった。
「おかあさんのいびきのせいかしら」終わった後,ヒカリは服を着ながら言った。「没入してしまったよ,私,先輩」
やっぱり「先輩」という呼び名のほうが僕らに似合っているとヒカリに僕は言ってみた。
「そうだね」ヒカリは僕に飛び込んできて言った。「わたしにとってはやっぱり先輩だもの」
「問題は」と僕は言った。「偽善が美しいかどうか,なんだよな」
「ええ、まさに」ヒカリは深くうなづいた。
我々人間に秘密と嘘は欠かせないとして,では、いま僕とヒカリが抱く偽善への嫌悪とどうバランスをとればいいんだろう。
「先輩,セックスも偽善なのかな」ヒカリは薄明かりの中で僕を見つめていた。
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ヒカリはそのあとすぐに寝てしまい、僕も続けて寝たが、3時くらいに目が覚めた。
静かに眠るヒカリを横に、僕は、癌で死んだ父が話してくれたたくさんのことを思い出していた。
「ひかるん」と父は僕のことを呼んでいた。「京都って幽霊が住む街なんだよ」
こんなふうに父はいつも京都のことを語っていた。幽霊の意味も当時の僕にはよくわかっていなかったが、その言葉の響きに僕はいつも吸い寄せられた。
「パパ、パパは京都が嫌いなの?」そう僕はストレートによく聞いた。
「嫌いであって、嫌いじゃないんだなあ」パパは、いや父は、好きな酒は僕の前ではあまり飲まず、かわりに白湯をよく飲んでいた。「特に、白川通りがやばい」
その白川通りに僕は今住んでいるのだから不思議だ。パパは続けて、白川通りでの失敗について繰り返し語った。
「パパがね、北白川の王将で餃子を食べてた時に」僕を連れて王将に入っている時に、父はよくこの餃子の話をした。「ロンドンから電話があって」
食べかけの餃子をカウンターに置いたまま父は店外に出て、そのロンドンからの電話に対応したエピソードは彼の定番だった。
ロンドンからの電話は、父にとって生涯一度きりのもので、とても大切な思い出のようだった。けれどもその話を父は誰にも話さず、幼少期の僕にだけこっそりと話していたことを死の床の中のパパから最後に僕は聞いた。
「だってひかるん、そんなの恥ずかしいじゃないか」癌でやせ細ったパパはへへへと笑いながら、照れた。「オトコのあがきというか、妄想だよ」
10代前半の僕にはそのへへへな感じがとても不思議だったものの、父が僕にだけ気を許してくれていたことは嬉しかった。その気分のまま、死の床の父にそのロンドンからの電話はどういうものだったのか、初めて聞いてみた。
「それがね、ひかるん」父は僕をまっすぐ見て言った。「ロンドンのその元彼女が、その時の彼氏、今は結婚してるんだろうけど、その彼氏との間に子どもを妊娠したっていうんだよ」
「わざわざロンドンから電話でそれを?」僕は父に聞いた。なんとなく嘘っぽく聞こえたからだ。
「嘘じゃなさそうだった」父は微笑んだ。病床の父はテレパシーが使えるようで、僕がいちいち返事しなくても、僕が考えていることによく答えてくれた。「けど、古い時代だけどメールは存在したし、わざわざそれを電話で伝えるか? と俺も思った」
「よほど伝えたかったんだね」僕は父の手を握って言った。「もしかして、パパの病気のこと、パパがメールしてたんじゃ?」
「当たり!」父は僕の手をぎゅっと握り返した。「ママには悪いと思ったけど、そんな超迷惑な遺言メールを元カノに送るのがパパなんだよ、おまえの」
「パパには悪いけど、パパ、最低」僕は笑いながら言った。
「そうだろ? 最低だろう?」末期の癌だというのに、彼は余裕の皮肉の笑みでゲラゲラ笑った。僕はそんな父を尊敬していた。
父は続けて言った。
「実は、俺とその元カノは結婚する予定だったんだけど、元カノが流産してしまって、結婚もオジャンになったんだよ」
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だからか、だから、その元カノさんは、父の末期に、自分に宿った新しい魂について肉声で報告してきたのか。
僕が父にそう言ってみると、
「そう、その流産は我々だけの秘密だった」パパは珍しく沈んだ表情になった。末期の癌で1週間以内にも死ぬはずの彼はでも、いつも冗談ばかりを言っていた。だからなおさら、その沈んだ表情が僕には印象的だった。「それ以来、実はパパは、たましいのようなかたちを信じるようになっちゃった」
「たましいって、幽霊?」僕は素朴に聞いてみた。そして、いや、違うか、と続けて思った。
「そう、違うんだよ」パパはテレパシーを使って僕の心を読み、答えた。「幽霊にはキャラがあるけど、たましいのキャラ性は薄い」
「キャラ?」僕は聞き返した。じゃあ、幽霊はある程度大人になり自我完成に辿り着いた元人間がなるもので、たましいは同じ元人間でも自我形成以前の存在、つまりは胎児のような存在が変換したもの?
「あえて説明するとそういうことだな」末期癌のパパは聞き返す力が残っていないのか、テレパシー中心のコミュニケーションに移行したようだった。「その流れてしまった胎児のたましいは、実は最近までパパと一緒にいた」
「あ、けど、その元カノさんからの電話がきっかけで消えていった?」僕は反射的に答えた。そのたましいが行った先は天国? 極楽?
「どっちでもないだろな」パパは僕の心を読み取って答えた。その表情には少し明るさが戻っていた。「俺は、バナナ穴に戻ったと解釈している」
「ええっ? サリンジャーの?」僕は驚いて答えた。当時中学生だった僕は、読んだばかりのサリンジャーのその短編がわからなくて、パパにその意味を何度も聞いていた。けれども父は教えてくれなかった。それをいま言うか?
「いま言うのが俺なんだよ、へへへ」パパは完全にいつものペースを取り戻していた。また、癌の痛み止めの点滴が効いてきたのか、少し眠そうでもあった。
「パパ、少し寝よう」僕はそう提案した。1日でも長く生きていてほしいんだよ、僕は。
「いや、いま寝たらそのままマジで死ぬような気もするので、もうちょっとがんばる」とテレパシーで僕の心を読んだあと、言葉で返した。「ひかるんもテレパシーができたらいいのになあ。実際にしゃべるのは疲れる」
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「バナナ穴は、たぶん偽善の象徴なんだよ」パパは続けて言った。「だからその時一緒にフロリダの浜辺で遊んでいた小さな子どもがシーモアに向かって『バナナ穴が見えた』って、シーモアのご機嫌取りをした瞬間、シーモアは子どもという最後の希望にまで裏切られた感じがしたんだろうな」
パパは長くしゃべった。パパは、バナナ穴についての僕の執拗な問いに、いま初めて答えてくれようとしていた。まるで遺言のように。そう考えると僕は、パパの前で泣いてしまった。
「遺言じゃないよ、ひかるん」パパは僕の頭を撫でてくれた。「おまえが、純粋さと汚れとの間でやがて苦しむようになった時、この話を覚えていてくれればいいんだ。あ、これって遺言か!」とパパは小さな声で笑った。
このユーモアが、僕は大好きだった。僕にはなぜか反抗期はなく、パパに頭を撫でられるのが好きな変な中学生だった。
「けどパパが思うには」点滴が効いてきたパパはいよいよ眠そうだった。「バナナ穴は偽善と汚れの象徴ではなく」と、小さいけれどもよく聞こえるその不思議な声で僕に言った。「穴の中は汚れているというよりは、腐る寸前のバナナのように、一見腐っているようで実は美味しいというか、そんなおもしろい感じなんだよ、実は」
腐る寸前のバナナって、つまりは汚れの象徴では? と僕は言いかけたけれどもやめた。が、テレパシー使いのパパには無駄だった。
「ひかるん、お前、腐る寸前のバナナを食べたことないだろ?」パパは少しムッとしていた。「案外いけるんだぞ」
「パパ、見た目は汚れてるけど実は美味しい、そのねじれがおもしろいんだよね、バナナ穴は?」僕はパパを寝かせようと思い、会話のまとめに入った。
「そうだな、ポイントはひかるの言うねじれだな」パパも諦めかけたのか、会話を終わらせようとした。「でも、そのねじれのおもしろさに気づけないんだよ、シーモアみたいな人間は」
そう言ったあと、パパはすぐにイビキをかき始めた。
僕は、今の今ままで、ずいぶん前にパパと交わしたこの会話のことを忘れていた。いま、それを思い出したのだが、それでも謎は残っていた。
キャラ性の薄い胎児のたましいが、既存の天国や極楽ではなくバナナ穴を選ぶのはなぜなんだろう? キャラを持たなかったそのたましいにとって、一見腐りながらも実は美味なねじれたバナナ穴は快適なのだろうか。そのバナナ穴のねじれを享受できるのは、むしろ汚れきった大人たちだけなのではないだろうか。
夜が明けてきた。明けない夜はない。ベッドではヒカリが静かに眠っていた。僕は、あのパパとの会話の際、思わず泣いてしまった自分を思い出した。それは、パパがあの少し小さめの手で僕の頭を撫でてくれたからだった。
僕はベッドに座り、ヒカリの髪を撫でた。今度は僕が頭を撫でる側なのだが、泣き虫の僕はまた泣いてしまった。
「泣き虫の先輩には、朝日がよく似合うね」ヒカリは、笑って僕を見た。彼女は見ただけだけど、僕にはそう聞こえたような気がした。だから僕はそのまま泣きながら、
「明けない夜はない」と紋切的なセリフを思念してみた。
「うん、ないよ、先輩」今度はヒカリは声に出して言い、笑った