わかってもらうとは
わかってもらおうとするムーブ自体が負けムーブであるということ。本当に助けが必要な人は助けたい形をしていないという言葉があるように、助けというのは必要なところに来るのではなくて、たまたま助ける力がある人がたまたま助けたい形をしている人に出くわした時に行われる。理解してもらいたい、おもんばかってほしいという助けを必要とする姿勢は助けたい形ではないものがデフォルトである(助けたくない形とは言わない)。鏡を見てみれば助けたい形かどうかは己で容易に判別できる。これを踏まえて、理解を求める必要がある相手か、理解を求める必要のある時か、適切に判断してから理解を求めるという行動に至るべきである。己が欲求にただ従っても立場が悪くなるだけである。自分の正義だとか、自分の弱点だとか、そんなことはほかにとっては一切関係のないことなのである。友情を深めたり、仲間づくりの終盤のステップだったりが「わかってもらう」ということをしてよいシーンであり、突然何も関係性のないところに持ち出す演説内容ではない。友人や仲間だと思って「わかってもらおう」として、何も伝わらないことももちろんある。それがデフォルトであることを忘れてはいけない。つらいことだが、知能には差があるし、自然言語というインターフェイスは「わかってもらう」にはあまりに貧弱すぎるツールなのだ。
自分が自分の人生の主体になろう。誰かがやってる何かに載っかるのは、自分が何かをなしてきたから、なせそうだから載せたい人が現れて、自分が許諾する行為であって、おんぶにだっこを頼み込む行為ではない。すでに載っかってる人もそうである。知らん人を載っけるひとはいない。あなたがすでに何かをなして、あなたが魅力的だから共に歩んでいるのである。