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台湾ひとり研究室:留学編「短期留学記4:授業のこと。」

2012年の短期留学で、語学学校に通ったのは5日だった。1日の時間は日本国内の日本語学校で日本語学習者が学ぶのと同じ半日。当初はグループレッスンを希望していたのだが、それへの参加がかなわず、プライベート授業になった。

初回にも書いたけれど、学校のオリジナルテキストには、日本語訳がついているし、初級の文法書は一通り読んでいたこともあって、ほとんど読めばわかる。5日で6課と進度が早いのは、それまで独学で繰り返してきた中国語学習の挫折という下地があるからってだけのこと。

おもしろかったのは、教師一人一人の授業が同じようでいて違う、ということだった。いや、当たり前のことだけど、しげしげと観察(!)していると(へえ)と思うことが多々あった。

たとえば脱線。脱線の中身にもオモシロいものとそうでないものがある。ある先生は行きっぱなしでほとんど戻ることがない。行先は、何かしら教科書と関連付けている人もいれば、最初とは着地点がまったく関係ない人もいた。脱線が始まって10分を過ぎると、(そろそろ戻ろうぜ)と教科書に目を落とすようにした(ヤラシイ学生だ!)。それにちっとも気づかず、戻るのは自分のタイミング、という先生ももちろんいたけれど。

最も(ああ、これは力量の差だわ)と思わされたのは、板書だった。
先に書いたように、教科書にはある程度の文法説明がある。だけど、問題は、その文法説明を授業でどう扱うかだ。どの先生もそれを読みあげることと、その文をわたしに読ませることがほとんどで(←どこかで聞いた話!)、課全体を整理する意味での説明は多くなかった。そもそも文法説明は、文の構造を解説することだ。教科書に書かれているから省いていいという類の話ではない。それに、初級が簡単というのは教師の目線であって学ぶ側の感覚ではない。どんな仕組みだって初見で理解するのなんざ、よほどの秀才でないと無理だもの。

わたしが今回授業を受けた5人の先生のうち、その課で扱っている文法項目を板書で視覚化して整理して説明してくれたのは、一人だけだった。多くは、失礼ながら雑記帳でしかなく、自分が口にした単語を文字化するだけ。もちろん音だけではなく漢字で確認できれば聞いているほうは理解しやすい。だけど、それは単に音を文字化しただけで、「何らかのルール整理」ではない。板書のスピードが速すぎて「等一下!(ちょっと待って)」と書くのを何度も制さなければならない先生がいた。(先生の板書や説明を、自分なりに整理しながらノート取るのって難しいんだよ)と思ったが、さすがにこれは口にしなかった(ここで書いてるけど)。

でも、どうしても黙っていられなかったことが一つある。それは教科書のわけわからん例文だ。

例文  這些錢,我給媽媽一半。
直訳  これらのお金、半分を母にあげる。

なんだそれ?? どういう状況でこの文が生まれたのか、さっぱりわからん。遺産相続のシーンかよ!(それならそれで、むしろオモシロイけども)

で、ついに聞いてしまった。「先生、これどういう状況なのかわからないんですけど、いつ使いますか」。きょとんとした先生に「文型の練習なんだからいつとか関係ないのよ」と返されたが、「いや、大事なことです。いつ使うのかわからないのに練習する必要がありますか」…我ながらとーってもメンドクサイ学生だという自覚は十分にあった。でも、これっていつ使うんだろう…と思いながら、自分とはまるで関係のない練習をさせられるのは、わたしにとって苦痛でしかなかった。授業では毎回、教科書の例文や単語を使って作文をさせられたけれど、可能な限り自分の出来事に置き換え、教科書の質問に答える練習には、型ではなく考えや体験で返事をした。そうやって意識的に教科書を崩す返事を繰り返した(ヤラシイ学生…でもさすがにリンゴとかってどう作文したらいいか悩んだ)。つまり、自分に引き付けたことでしか文を作らなかった、ということだ。

先生に、考えてほしかったんだ。「練習する」ということの意味を。

ことばには、その文字や語、文が生まれる背景や文脈、そして相手が必ずある。それなしにことばは生まれないし、成立しない。型が大切なのはわかるけれど、型さえ覚えれば話せる、というものではないはずだ。中身こそ吟味すべきではないのか。いつどこでだれにどういうシチュエーションでその型を使うか。自分にとってその型を使うのはいつが適切なのか。口慣らしが必要だからといって、そういうことなしに言わせるのは、練習ではなくて強要ではないか。学習者は「使いたい」と思うからこそ、その型の強要に耐えるのではないか。どうせ口慣らしするなら、言う意味を感じられる練習にしてほしいと思うのは、学習者の傲慢だろうか。

授業は教師だけのものではない。学習者だって授業の作り手だ。教師には教え方があるからといって、授業や学習者が口にする中身まで型にはめようとするのは違うぞ、と言いたい。

とはいえ、どうしたらいい授業になるのかを考えるのは、教師だけの責任ではない。学習者の責任でもある。何を学びたいのか、知りたいのか、どうしたいのか、授業を受けながら考え、ときには注文をつけるのだって、必要ではないか。なぜなら、授業は、教師と学習者のものだから。一緒に考えることが語学学習には必要だって気がする。

あ、決してわたしが行った学校批判も教師批判でもありませんので念のため。ただ…ちょっと過激?なことを、おそるおそる言ってみることにする。

勝手口から見た台湾の姿を、さまざまにお届けすべく活動しています。2023〜24年にかけては日本で刊行予定の翻訳作業が中心ですが、24年には同書の関連イベントを開催したいと考えています。応援団、サポーターとしてご協力いただけたらうれしいです。2023.8.15