台湾ひとり研究室:留学編「短期留学記8:慢慢来!」
1997年に前職の会社に入って15年。一貫して日本語教育の現場を取材しながら、ずっと疑問だったことがある。それは、わざわざ高いお金を払って日本へとやってきた留学生の多くが「日本人の友達ができない」という悩みを抱えている、ということ。で、自ら現地で学校に通ってみてはじめて、その難しさを実感した。すれ違う人は多々あれど、縁をつなぐのは存外難しいものだった。
それでもまだわたしはホームステイだったから、直接触れ合う機会に恵まれたほうかもしれない。滞在先の息子くんには、日本の風景を切り取り絵葉書をキレイな切手で送ることになり、「ペンフレンドね」と指切りした。帰国のその日、大家さんからは「息子が葉書をやり取りするんだからわたしも」とメールアドレスを教えてくれた。
学校で授業を担当してくれた先生とは、一緒にご飯を食べに行ったその日に「じゃ、わたしは台湾人朋友1号ね」と宣言があり、翌日には一緒にライブを楽しんだ。さらにその翌日には、台中に行くというわたしに、彼女はお昼休みを割いて高鐵(=台湾式新幹線)の切符をコンビニで買う方法を指南し(実際目の前でやって見せてくれた)、「近道だから」とステイ先まで送り届けてくれた。校外でのおしゃべりの間にもわたしの間違いを丁寧に訂正するものだから、「いま、先生なの? それとも友達なの?」と聞いたら「そりゃ友達よ。でもいつものクセが出ちゃう」と笑った。
台湾人朋友だけではない。在台北日本人の友達が一気に増えた。仕事仲間、留学仲間、友達の友達(はみんな友達?)などなど。ご飯を食べたり、バイト先に押しかけたり、おうちにお邪魔したり、お茶を飲んだり、映画を観たり、メールをしたり…とにかく多くの時間を割いた。帰国の日は、人生で初めて空港で見送りをしてもらった。しかも、4人(+1人+小朋友2人)に。
渡航前、「1分1秒も楽しんでくるんだよ!」と背中を押してくれた友達がいたけれど、わずか9日間の語学留学はいつの間にか語学はそっちのけ?になり、誰かと過ごすことを思いっきり楽しんでいた。そうして一緒に過ごした一人ひとりに話を聞けば聞くほど、誰もが決して一様ではない悪戦苦闘を重ねながら、でもなんだか楽しげに、かつしっかりと、そこで暮らしているのだった。
ことばを学ぶことは、そのことばのある場所と縁を結ぶ第1歩なのだろう。窓というか入り口というか、その程度に過ぎない。問題はそこからだ。2歩、3歩と先へ踏み出すかどうか。さらに、進む先は全方位、どこへだって行ける。もちろんことばだけに閉じてしまうことも可能だが、ことばだけではなく、場に、人に、出来事に、自分を開いていくことだってできる。
世界的な調査によれば、日本語学習者は年々増加しているらしい。中国語関連試験の受験者も増えていると聞く。では、互いの理解者はどれだけ増やせたのだろうか。友達は増えたのだろうか。語学教育が果たしてきたことは何なのだろうか、という疑問が拭えないでいる。もしかして、ことばはかくあるべきを説き、少しでも外れたらダメだということに終始してこなかったか。「ああ、日本に来てよかった」と思う人を一人でも多く育てていれば、いまのような関係は回避できたのではなかったか。この15年で自分がやってきたことを振り返らずにはいられなかった。
だからといって、嘆いたところで何の解決にもならない、とも思う。ひとまずわたしがプロになるかどうかはさておき(笑)、せっかくながーい時間かけて開いた中国語の、台湾へのトビラを閉じる気は、やっぱりあるわけもなく。ま、開いたからといって1日2日でどうなるわけでもないわけで。とりあえず「慢慢来」の気持ちで、この縁を歩んでみることにする。なんだかねー、慢慢来って好きなのよなあ。
勝手口から見た台湾の姿を、さまざまにお届けすべく活動しています。2023〜24年にかけては日本で刊行予定の翻訳作業が中心ですが、24年には同書の関連イベントを開催したいと考えています。応援団、サポーターとしてご協力いただけたらうれしいです。2023.8.15