台湾ひとり研究室:台所編「ドキュメンタリー映画『キッチンから花束を』に見るおいしい記憶の束の奥にあるもの。」
画面越しなのになぜだか(あ、これ、絶対おいしい)とわかる。食べたことないくせに、映し出されるお料理の姿、慣れた手つき、そして自分が食べてきた味の記憶と照らし合わせると、どう考えてもおいしい、しか出てこないのである。味も香りもないのに、不思議。
そんな画面越しの「おいしい」から始まるドキュメンタリー映画『キッチンから花束を』の舞台は、南青山にある中華風家庭料理「ふーみん」。ふーみんと、ふーみんの生みの親である斉風瑞さんが、本作の主人公だ。台湾人の両親のもとに生まれた斉さんは、1971年にふーみんを開業した。2度の移転を経て、今も行列のできる人気店として続いている。
斉さん自身の味の記憶や店の道のりなどに加え、途中、斉さんが台湾を旅するシーンが出てくる。老舗レストラン、個人料理店、市場、そして個人宅。台湾旅行も食が中心にある。
訪問先となった洪さん一家が集うなか、お母さんが家庭料理を振る舞い、斉さん一行を交えて、みんなで食べる。その、ワイワイ、ガヤガヤしながら、テーブルを囲んで食べる様は、台湾に今もあるとても大事な、貴重な時間かもしれない。
団塊ジュニアが家庭を築く頃にはすっかり核家族化が進んだ日本と違い、台湾には今も三世代が同居する家が少なくない。そこには「うちのごはん」がある。
訪問先となった洪さんのお母さんは「台所、狭いんですけど」と言いながら、瓶詰めにした保存食を紹介し、冷蔵庫の中身を見せ、次々と料理を繰り出していく。斉さんは傍らで、作る様子を観察する。外食だけでなく、家庭料理を食べてみたい、と思うのは、おいしいものの源泉がそこにある、ということを知っているからだ。
台湾のお母さんが家庭料理の中心にいるからといって、男女の不平等云々をしたいのではない。台湾の前総統は女性で、アジアで最も早く同性婚が法制化され、ジェンダーギャップ指数世界34位という先進国家だ。125位という日本より遥か先をゆく。そういう、男女論とはまた別のところに「うちのごはん」はあるように思う。それに、斉さんのお父様だって台所に立ち、スパイスカレーを作っていたという。
斉さんの言う「食べること」の意味を、大切さを、台湾の人たちは体現している。
日本の家庭料理はレシピの確立と精緻化によって普及してきた。だが、台湾のレシピ本は少し前までおおらかで、自分で再現したいと思っている身としては、なんだよ、これじゃ作れないなあ、と思ってしまっていた。レシピの再現性の高さを求めている自分に気づいたのは、ずっと後になってからのことだ。
台湾においしいものがたくさんある、それは一度でも台湾でごはんを食べたことのある人なら知っていることだ。だけど、そのおいしさの奥底の源流がどこにあるのかは、実は当の台湾の人たちも自覚していないような気がする。そのぼんやりとした景色を、台湾の両親のもとに日本で育ち、研ぎ澄まされた舌をもち、丁寧に育んできた斉さんが見事に、解像度高くして伝えてくれている。
そう。答えは、この映画の中にある。
自分の姿は、自分ではなかなか気づけないものだ。ふーみんという場の力と、斉さんの姿勢を通じて、台湾の人たちが日本食や海外のごはんだけでなく、足元のうちごはんを振り返る、そんな1本になる。
ちなみに、斉さんの「わたしたちは『ゆうぷん』って呼んでたけど、中華風のおこわね」という一言でわかったのは、ご両親は台湾語を使う人たちだ、ということ。漢字では「油飯」と書くが、これをどう読むかはその人の言語環境による。どういう理由で日本に渡ったのかは語られないけれども、日本で台湾を思いながら誰かに食べさせる、その気持ちを思うと心の臓がギュッとなった。
ところで、食べ物の記憶、とりわけ「おいしい」と思ったものの記憶は、ひとりひとりの心の奥底に丁寧に仕舞われていくものなのだ、と本作は教えてくれる。なぜって、ふーみんのお料理を食べたことのある人たちが語り始めるその瞬間、ふっと笑うのだ。笑顔がこぼれる。たった一瞬だけど、ふーみんのごはんへの思いを端的に表している。
観終わったあと、ごはんを作って誰かと一緒に食べたくなる。そんな豊かな気持ちにさせてくれる1本だ。