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最終的に、すべての確率は50%でしょ?
いつもこれをいうと「は?なに言ってんの?」と返され、相手にされません。それでも私は思うんです。すべての確率は50%だと。
例えば、宝くじ。買い占められない場合に残る選択肢は、当たるか当たらないか。それってもう二つに一つしかないので、確率は50%だと思うんです。
たくさん枚数を買うと当たる確率が上がる気がします。でも当たらないかもしれません。買ってなくても道で拾ったくじが当たるかもしれません。やっぱり、最終的には当たるか当たらないかの50%ではないかと...。“自分の意思でどうしようもないこと”は、最終的に確率50%だと思うのです。
こんな考えを持ったのは、人を信じるということに向き合ったときでした。
ニュージーランドでヒッチハイク旅をしていて、若者二人が私を拾ってくれました。陽気な感じの若者は、「旅人を助けたいんだ」「ローカルのスポットを教えてあげるよ」と言って車を走らせます。やさしすぎる若者たちを私は疑いました。
「あとでお金巻き上げられるかも」「ぜったいなにか裏がある」
と勘ぐりながらも愛想をつくっていました。流れていく田舎の風景が、小さな町の集落に移ったところで、若者のひとりが言いました。
「今日はおれの家に泊まらない?」
「うーん、どうしよっかな。(はい、きた。寝ている間に財布とか取られちゃうパターンでしょ。)」
「もしよかったらぜひ!明日朝からいろいろ連れて行きたいところがあるんだよ!」
「なるほど〜。(最悪の場合、銃とか向けられて...。)」
それでも、北方謙三のハードボイルド小説にハマっていた私。「死んだら死んだでそこまでの人間だった。」と思うようにして、この話に乗ることに決めました。
次の日、何事もなくローカルスポットを案内してもらったり、いろいろと語り合ったり。結局、2泊しました。
「最後の最後に、もろもろお金を請求されてしまうんだろうな...。」
ここまできても疑うことをやめない私。
次の町に向けて出発する日、若者はビールを奢ってくれました。ローカルしかいないような小さな町の酒場です。若者の優しさにとクラフトビールのほろ苦さがとても心地よく、そのシーンを思い出すときはなぜかスローモション再生です。そんな気持ちの良い時間を過ごしたあと、若者は私をヒッチハイクしやすい場所まで送ってくれました。
しかしなんと、ここまできても私はこの優しすぎる若者を疑い続けていたのです。
「ありがとう(いくら請求されるのかな。)」
「おう!こっちも旅の話聞けて楽しかったよ!じゃあね〜!」
「・・・。」
若者は車に乗り、陽気に手を振って去っていきました。
「後悔しかない。」
その時は本当に後悔しかありませんでした。疑うことに必死で連絡先も聞いておらず、まともに心を開くこともしなかったのです。
どんな危険も回避できるように準備はするべきです。だけど自分の意思でどうしようもないことは、割り切ってしまうことが必要なのかなと思います。最終的に確率は50%なのだから。
もし私が有名になってテレビ番組なんかに出て「会いたいヒトは?」と聞かれたら、その若者のことを答えます。
また乾杯したい。今度は友達として。