見出し画像

noteデビュー

はじめまして。
立命館大学体育会サッカー部主将の田中康介です。
note始めてみました。

なぜnoteを始めたのか。

様々な理由はあるが、1番は自分の夢や目標に繋がる、「他者に"何か"を与え続けられる人間になる」というものがあるからである。
またこれについては追々書こうと思う。

生い立ち

1999年2月1日、田中家の長男として奈良県に産まれた。

<幼稚園>

スポーツ歴最初の競技は水泳だった。
2歳から始め、物心がついた頃にはもう水の中にいた。
そして幼稚園へ入園し、年少になり。初めて将来の夢について考えた。
人生初めての夢は忍者だった。
なぜかは覚えていない。カッコ良く見えていたのであろう。
それから、身体を動かすことに楽しさを覚え、夢がスポーツ選手へと変化していった。

年長になり、少し経つと、母親が「康介、サッカーやってみいひん?」と口にした。今でも鮮明に覚えている。この一言が自分の人生を大きく変えた。
そして当時の友達2人と地元のサッカースクールに通うようになった。
その年の最後にまた、将来の夢について考える機会があった。
欲張りな自分は、水泳選手とサッカー選手と書いた。

<小学校>

小学校に上がっても、水泳、サッカー両方に通っていた。
この時期から、水泳より、サッカーが好きになり始めた。

小学3年生9月、転機が訪れる。
父親から「もっと強いチームでやらないか?」と言われ、当時県内で1、2を争う強豪、高田FC(現ディアブロッサ高田FC)に移籍した。と同時に水泳を辞めた。サッカーで高みを目指すことにしたのだ。この決断が自分をさらに大きく成長させてくれた。

入団当時の6年生の先輩が全日本小学生サッカー大会、いわゆる全国大会から帰ってきて、みんなの前で挨拶をしていた。結果はベスト8。
とにかく輝いて見えた。
雲の上の存在かと思った。
しかし、そんなチームに所属すると、自ずと目線が一気に県内から全国へと切り替わった。

小学4年生、全国レベルということだけあって、試合の相手は、ほとんどが県内トップレベル、全国レベル、飛び級して年上と戦う。それが当たり前だった。
しかし、1年間で試合に負けたのは片手で数えられるほどだった。
この時期から日本一というものを意識し始め、ここから人生をかけた日本一への挑戦が始まった。

小学6年生、全国大会に2年に1度しか出られないというジンクスがチームには存在した。過去数年間、ことごとく、2年ごとに全国出場を逃していたのである。
自分達の代はちょうど出場できない年と被ったのだ。決勝までは順調に進み、全員がジンクスを打ち破ろうと意気込んで決勝に挑んだ。
結果は3-0と危なげなく勝利し、全国の切符をつかんだ。
そして初の全国大会。グループリーグから準決勝まで全勝で、決勝までは上り詰めた。
たしか、7000チーム以上のチームが大会に参加しており、その中の頂点を決める試合にまで駒を進めたのである。
あと一つ勝てば日本一。全員の思いは一つだった。
結果は0-2。準優勝

あと一歩のところで日本一への夢は儚く散った。

そしてこの経験を糧に、もっと高いレベルでやりたい。今度こそ日本一を掴み取りたいという思いで、中学はJの下部組織でプレーしたいと考えるようになった。

小学6年生11月京都サンガF.C.U-15のセレクションに参加。
自分よりでかい、速い、うまい選手が山ほどいた。
最終選考まで残ったが、結果は落選だった。

しかし、2月に二次募集があった。
悔しかったし、他のチームに入り頑張ろうかとも考えた。ただもう一度チャレンジしたいという思いが勝ち、セレクションに足を運んだ。

そこで合格を掴み取った。

卒団間際、小学校の監督から、「3年間試合に出れなくても腐らず頑張れ」という言葉をかけられた。
それもそう、小学校のチーム内にも自分より上手い人は何人もいたし、合格したサンガのメンバーを見れば自分がダントツで小さかった。まさに子供と親。
しかし、この言葉が自分の中にある反骨心を駆り立てることとなった。


中学校以降は次のnoteに書こうと思う。

いいなと思ったら応援しよう!