高麗川を行く・古道
高麗川・清流橋のCAWAZ近くに「古道」と呼ばれる散歩道がある。集落の中のお地蔵様の脇から、木々が生い茂った暗い森の中の中を進むと、明るく開けた原っぱにで出て、さらに見事な竹林を歩むと高麗川沿いの遊歩道に出る。さしずめ国木田独歩の武蔵野か、あるいはメイが迷い込んだトトロの森のようだ。わずか200ⅿ程の平坦な小径であるが、ちょっとしたトレッキング気分が味わえる。自分は自宅からCAWAZへ行くときに、MTBでここをぬけてゆくのだが、いつも子供のような探検気分が味わえる。
嘗て毛呂山方面から高指山の脇を越え清流地区を下り高麗川を渡り、高麗峠から飯能に至る道が続いていた。この名残がこの「古道」だと言われている。実は大河ドラマの「晴天を突け」の渋沢栄一が、若輩のころ藍玉の買い付けにここを歩んだ記録が残されている。
過毛呂一里半、有嶺、曰清流峠、嶺上四望、嶺山如眠、近山似笑、若芽之緑、柳色之黄、猶如紅桜白杏紫草、一山之中、恰為五彩之観、而抽蕨之童、歓々喜前、伐木之樵、静々眠後、其幽雅静間、十倍於先日之所目、有詩、軽装三月探芳天。正好杏桜妍且鮮。嶺上艶濃花耶靄。渓間細淡水疑烟。攀霞崖路背負剣。 攀巌又廻谷入雲烟。更愛嬌花行路連。縁海白描何処杏。紙天黒点誰家燕、送芳淡靄眼堪見。迎客清光手可牽。却愧吾無健筆力。空将春色付徒然。
下嶺曰平沢村、々有《(在カ)》渓間、過村又登嶺、々降凡三四、而末嶺最高、曰飯能峠、而達巓、而飯能有目下、意忽飛、下則又遥有前路、兼程入茶肆而憩、自越生到飯能、「玉石見聞録」南遊季候(渋沢栄一記念財団 デジタル版渋沢栄一伝記資料より)
毛呂を過ぎて嶺を行き清流峠に至り春の花々に彩られた風光明媚な風景の中で気分が良い様を渋沢栄一は詠っている。また、高麗川の文字は出てこないが、平沢村、渓間の文字がみられ高麗川をどこかで渡ったことが推測される。
若い日の渋沢がその後の未来にむけ嬉々として藍玉の商売(農、工、商の要素がありその後の渋沢の事業展開に影響を与えたと言われる)で南下したのに比べ、養子の渋沢平九郎は失意の中で逆方向に歩んだのではないかと考えられる。徳川慶喜に仕官後、栄一は慶喜の命によりパリ万博・海外視察に赴いた。出立に際し栄一は親族の渋沢平九郎を養子に迎えている。若干22歳の平九郎は振武軍に参加し上野の山の戦いで敗退。振武軍は飯能に逃げ落ち、さらに薩長との飯能戦争で平九郎は傷を負い故郷の深谷に向かった。奥武蔵グリーンライン上の平九郎茶屋はその経路にあるのだが、今でも飯能のから清流を越りグリーンライン沿いに尾根道を進むと平九郎茶屋に行くことができる。記録には残っていないが、飯能から平九郎茶屋への経路にあるこの古道を平九郎が傷を負って歩んだ可能性は高い。
実は、自分は大学院の日本経営史で渋沢研究に触れたのだった。この楽しい古道の発見と、さらに大河ドラマは、自分の渋沢栄一と渋沢平九郎像をリアルなものとした。遊ぶことに楽しみがあり、学ぶことに発見があり、それらはよりよく働くことにつながるだろう。