美術館通いは密かな趣味
美術館通いを重ねると、専門教育を受けていない私でも、鑑賞技法がそれなりに身につきます。
子供の頃、学校の図書室で美術に分類されてるの書棚を端から端まで読み漁ってきた時よりも、現在は美術史や作家研究がさらに精緻になっていて、美術展における解説も音声ガイダンスもかなり楽しめる作りになっています。展覧会の後スーベニール売り場で展覧会オリジナル商品を眺めると「キュレーターの人たち、企画から商品完成までの作業が大変だよなあ」と感心したり。
一方で、大人の事情がわかる世代になったせいで、美術館に通うたびに「芸術って、やっぱ『芸』やねんな」って余計な感想も深まります。
印象派の活躍した時代は、画業で一本立ちするには、絵の具もカンバスも高価すぎるし、商業ベースに乗っかり続けるには世間に「受けないといけない」「インパクトをもたらさないといけない」というプレッシャーもあったんだろうなと思いを馳せる。そういう事情の中で表現技法が深まったり広がったりしたんだろうなと。
しかも、後世の我々はそんな画家の方々の成果を「投機対象」にしたりするし。バブルの頃日本企業がゴッホのひまわりとモネの睡蓮を競って買い集めていたのも記憶に新しい。
この度のレッサー・ユリィ画伯の突然巻き起こった人気の盛り上がりも、もしかしたら、ちょこっと訳ありかもしれんなと思いながら鑑賞しました。もともとイスラエル建国の事情、この美術館への絵画の寄贈を行った「支援者たち」が寄贈行為を節税対策にしたことは間違いがないだろうし。絵画を素直に鑑賞するには余分な情報に詳しすぎるのも考えものだと「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」って映画のことを思い出しながら絵を一つ一つ大事に観ました。
印象派の絵の「筆の跡」を観るのが好きなので、生で観られてよかった。