9月1週目
9月の1週目が終わる。
今週もいっぷくしているが、
とある記事について思うことがあったので、書いてみようと思う。
サードカルチャーキッズ、という子どもについての記事だ。
海外で子育てをする方が書かれた記事なのだが、多文化の中で学齢期を過ごす子どものことを、サードカルチャーキッズ(以下、TCK)と言うらしい。
記事の筆者、中川まろみさんのお子さんを通じ、TCKが持つ悩みや、日本の社会の排他性について書いてらっしゃる。
わたしは子どものころ転勤族だったのだが、TCKの姿にはそのときのわたしにいくらか重なる部分を感じた。
なのでちょっと書いてみる。
わたしは9歳までの間に、北海道からイギリス、イギリスから再び北海道、北海道から山形、山形から石川、と何度か引っ越しをした。
イギリスにいたころはまだ1歳そこそこだったのでおぼえていない。
英語と日本語についても書けなくはないのだが、またの機会にとっておこうと思う。
TCKと転校生はいくらか似ている。
TCKほどずいぶん異なる文化ではないものの、日本の中を移り住む転校生もまた、少なからず違う文化になじんでいくことになる、という点で似ているのだ。
何度かの転校の中でわたしもTCKに似た悩みをもっていた。
TCKの持つ悩みほど大きくないが。
そのときは悩みだったが、今ではとても良い経験になったと思っている。
小さいわたしは、本能的に、話しかけてきてくれる人と話すことに徹していたのかもしれないと思う。
じっさい何も考えてなかっただけかもしれないが。
みずから近づいてクラスのいろいろな集団のなかにとけこもうとしなかった。
迎え入れてくれる集団にだけとけこんでいった。
その中で、迎え入れてくれなかった集団もあって、当然いじめに近いこともあった。今では気にしていないが。
それら、おぼえていることをもとに考える。
強い排他性を持つ集団は、どんな形であれ人間関係が完成されている、もしくは安定している、という共通理解があるように思える。
完成されている、安定していると信じ、何も加える必要は無いと思うのだろう。
排他が生まれるのは当然のながれかと思う。
おとなの集団においてもこの行動原理は保たれていると、30歳のわたしは感じる。
「人の歴史のなかで確かなことは、人は殺せるということだ」
と、ゴッドファザーパート2でマイケルコルレオーネにあやかってまねてみるなら、
「人の歴史のなかで確かなことは、完成された人の集団など無いということだ」
と、30歳のわたしは言いたい。
強い排他性を持ってしかるべき人の集団など無いと言っても過言ではない。
そんな集団が生まれるほど人は、人間社会は成熟していないと思う。
排他されがちなTCKへのはげましとして、そう言いたい。
異質だと排他する集団ならそれまでだ。
集団として未熟だと判断しても、さしつかえない。
そんな集団の中にいる必要は無い。
探し続けても良いだろう。
作っても良いだろう。
だけれども。
記事にも似たことばがあるが、TCKは集団の中で、異質な人であり続けることが出来る可能性を持っている。
異質である人が異質なまま存在できる集団には、客観性が生まれる。
その客観性は、集団としての自意識を、集団を集団たらしめている共通理解を、集団の人間関係を、ふりかえる機会を与えてくれる。
TCKがそのことを忘れずおとなになったなら、TCKである自分のままおとなになったなら、社会という集団のなかで貴重な客観性を生むはたらきをしてくれるだろうと、わたしは思う。
そんな集団は、やわらかで誠実な集団になると思う。
ただしTCKの子どもたちは、自分自身が異質であれど、中立ではないことには常に注意しなければならない。
あくまで集団の中の、生身の客観性であることを、忘れてはいけないと思う。
わたしは、TCKという呼び方をせずに受け入れられる、転校生のわたしであり続けることにしようと思っている。
今週もいっぷくした。
来週もいっぷくする。
皆さまも、良い週末をすごすことを祈っている。