
自分の人生を生きたいならば、真面目に生きることはやめなさい
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どうも。ゆ〜せ〜こと田中優成です。
多くの人は真面目に良いものだと考えているし、そうであることを望んでいる。
しかし、私は真面目になること、真面目であることがなぜ賞賛されるかに値するか分からない。
実際、その真面目な人は何も生み出していなくてもしばしば賞賛される。
ここで、私の理解と実際の意味とのギャップを無くすため辞書で調べた。
辞書によると、真面目とは、「真心のあること。誠実であること。また、そのさま。」とある。
もう少し深堀って調べてみると、
真心とは、「真実の心。偽りや飾りのない心。誠意。」
誠実とは、「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。」
とあった。
これをまとめると、
真面目とは、「私利私欲を交えず、偽りのない真実の心を持っていること。また、そのさま。」と考えることができる。
この定義を理解した上で、真面目が賞賛される理由を考えてみよう。
そもそも誠実であることが善であるというのは、ただのステレオタイプである。
誠実とは、先ほどの辞書の通り考えれば、人間的感情の一切を持ち込まず、真実の心だけを持って行動するということである。
つまり、誠実=良いということは成立しない。
では、なぜ多くの人、つまり一般論では、誠実=良いと考えられているのか?
それは、組織的に上の人が下の人を使いやすいからであると私は思う。
この理由から考えると、あなたが管理職で、これはやりたくないですと全然言うことを聞いてくれない社員が10人とかいれば、その社員たちを管理するのはかなり難しくなるだろう。
逆に、真面目な人が10人であれば、あなたがやれ!と言ったことに対して、Yesと答えて実行してくれるので、管理する側からすると非常に楽になる。
ここで重要なのが管理職の人とその下の社員の割合が1:1ではない、均等ではないということである。
世の中の多くは管理職でない、その下の社員に属するのである。
この組織構造では、世の中の多くの人は評価される立場にあり、その評価をするのは基本的に管理職の立場にある人なのである。
なので、多くの人は真面目に業務をこなすことによって評価されやすくなるから、真面目になった方がいいと考えているのである。
組織構造という理由以外にも、大きな理由がもう一つある。
それは、歴史である。
特に、第二次世界大戦での日本vsアメリカのときは、日本は総力戦であったため、軍人以外の個人の助けも必要だった。
その時にも、「欲しがりません勝つまでは」というスローガンを強要して、同調圧力などによ国民を支配したのである。
僕は戦争なんて危ないし行きませんというのは許されない環境だったのである。
このとき、真面目に言われたことにYesと言って行動する人を育てることが戦争に勝つことには大切なんだと考えられたのである。
このような背景から真面目な人は賞賛されることとなったのである。
ここで、一般的に真面目が賞賛されるということではなく、先ほどの管理職のような上の人から真面目な人を見るとどうなるだろうか?
それは、心苦しい現実かもしれないが、組織的に上の人から考えると、下の人は、安く買い潰すことのでき、融通も利く、なんでもやってくれる人材と捉えている。
つまり、真面目というのはただ使いやすいというだけなのである。
このような場合では、パーソナリティや個人的価値観などは無視されている傾向にある。
このような真面目が賞賛される苦しい現実の世界ではどう真面目と付き合っていくのが正解だろうか?
私は、真面目な人というのは、「自分のやりたいこと、または自分にしかできないことを愚直にしつこく情熱を持って継続できる人」と考えている。
一般的な真面目との大きな違いは以下の3つである。
①私利私欲を求める
②人間的感情を軸に行動する
③自分の人生を生きる
つまり、ワクワクすることをやって幸せになる、欲求を満たす、金を稼ぐを目的に自分主体で生きていくということである。
もちろん、飽きたらやめても構わない。
とにかく皆さんには他人が作った当たり前に囚われず、自分だけの人生を「真面目に」生きていこうとこのコラムを読んで考えていただければ幸いである。
私は一生「真面目に」生きていきたい。
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