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【第1話】今夜、ご自愛させていただきます。

「もしかして、お客様も“ゴジアイ”ですか?」

喫茶店のテーブル席。深い赤色のソファに座り、ノートに文字を書き込んでいた私に声が降ってきた。

「えっ?」

3ヶ月前の冬、私は「ご自愛」に出会った。


***


「ははん。さてはデートですな」

遅番スタッフの杏子あんずちゃんはニヤニヤしながら私を上から下まで見ている。いつもと少し違う雰囲気の私服に着替えたからといって、すぐにデートと結びつけるのはいかがなものか。何度も「違う」と言っているのに、恋愛大好き・杏子ちゃんは「良子りょうこさんデートですね!」とうるさい。

「だから違うって。家に帰るだけです〜」

杏子ちゃんを適当にあしらいながら一つに結んでいた髪をほどく。着てきたワンピースに似合うようシニヨンに結び直した。

「本当かな〜。だって良子さん明日休みじゃないですか」

「休みを休むために使う大人もいるんです」

現役女子大生の若さが眩しい。

「ふう〜ん。数ヶ月前まではパンツスタイルが多かったのにな。でも最近の良子さん、元気になったというか。エネルギーが増したというか。すごくいい感じ。だから何かあったんだろうなって思うんですよ」

緊張感が解けた更衣室は開放的だ。新卒でこの大型ショッピングセンターの運営会社に入社して早8年。私は一番端にある婦人服売り場を担当している。

「今日のワンピースもとってもよく似合ってます。可愛い!」

「嬉しい。ありがとう」

アルバイトでこのお店にやってきた杏子ちゃんとはもう3年の仲になる。今ではすっかり姉妹のような感覚で話をしてしまう。

「あ、私もうお店に立たなきゃ。じゃあ良子さんお疲れ様でした!行ってきます」

「行ってらっしゃい。よろしくね」

入れ替わりでクローズまで入ってくれる杏子ちゃんを見送り、ロッカーの扉を閉じる。入り口付近にある姿見の前で服装がおかしくないかと立ち止まった。ずっと欲しかったベージュのワンピース。ウエストがキュッと絞ってあって、ウェーブ体型のスタイルがよく見える。シンプルなデザインながら、袖が少しボリューミーで可愛い。やっぱりこのワンピースを着ていると自信が持てる。

従業員入り口で社員証をかざし外へ出た。季節はすっかり春めいている。日が落ちるとまだ少し肌寒いものの、軽やかな空気は私をどこまでも連れて行ってくれそうだった。


20時。足早に帰宅し、作り置きしていたおかずを食べてサッと片付ける。帰る途中に駅ビルに寄って買ってきた苺のタルトを冷蔵庫から取り出した。ショーケースでも見たはずなのに、キラキラと輝く赤い粒に「わあ」とまた声が出た。

アロマキャンドルに火をつける。やかんでお湯を沸かしている間に紅茶の準備をして、お気に入りのティーポットとマグカップを取り出す。甘酸っぱい苺と合うように、茶葉は渋みが少なくクセがないセイロンティーにしようかな。ふつふつとお湯が沸く音を聞きながら、スマホの電源を落としクローゼットにしまう。

「杏子ちゃん、デートなんかじゃないんだよ」

薄暗くなった部屋でぽつりと呟く。

今日は私にとって大切な「ご自愛」の日なんだ。


***


誰かの言葉が、行動が、心に引っかかるようになったのはいつからだろう。ニットにほつれができてしまうように、私の心には少しずつ何かが引っかかり、小さな穴が生まれていく。

後輩が「転職するんです」とキラキラした瞳で報告してくれたときも、友達が「子どもが生まれた」と嬉しそうに話してくれたときも、試着室で今まで着ていたブランドの洋服が似合わないと感じたときも、いちいち私の目の前で止まり、ほつれを作っていく。引っかかってほしいなんて微塵も思っていないのに、今日も何かを受け止めてしまう。気がついたら自信がなくなり、不安で、虚無感で、心がずっとざわざわしている。

「うーん。そう感じてしまう人もいるとは思うけど、俺はないかなあ」

ソファにごろんと寝転がった健斗けんとに聞いてみても、顔を上げずに言葉が返ってくるだけ。近頃はずっとスマホのゲームに夢中だ。

「そうなんだ」

「良子は考えすぎなんだよ。もっと気楽に生きたほうがいいよ」

付き合って3年。お互い30代。健斗は私よりも4つ年上である。「これからのこともそろそろ気になるんだけど」と相談してみたくて口を開くけれど、やっぱりやめた。

仕事、ライフスタイル、体型や肌の変化。30代に突入すると静かに、大きく何かが変わり始めていく。「いやいや30歳なんてまだ若いじゃん」と自分で自分を励ますものの、ふとしたときに「私の人生ってこれでよかったんだっけ」と途方に暮れてしまう回数が増えた。今までは気にしていなかったことが、なぜかいつまでも心の中でぐるぐると回っている。もう随分と自分を認めてあげられていない。


穴が大きく広がったのは、冬の夕暮れだった。

「良子さん、この商品本当に私に似合うと思った?」

常連客のかおるさん。ショートカットでゆるくパーマを当てた銀髪は美しく、私の母よりも少し年上だろうか。いつも穏やかで上品な立ち振る舞いを見るたびに、どこか違う街に住んでいる人のように思ってしまう。ショッピングモールの、ましてや婦人服売り場で買い物をする人ではないでしょうと口にしてしまいそうになる。

薫さんはお店に来るたびに私に洋服の相談をする。婦人服売り場に配属になり何度かやりとりするうちに、すっかり気に入られてしまった。

「……はい!機能面でもデザイン面でも薫さんにお似合いだと思います」

薫さんから少しトゲがある言い方をされたのは初めてだった。気品ある雰囲気を壊すまいと、限られた店内の商品から一生懸命選んでいる。いつもは「良子さんに選んでもらうと間違いないのよね」とすんなり受け入れてくれていたはずなのに。

「そうかしら……。私には良子さんが本当にいいと思っているような気がしないのよね」

「申し訳ございません」

勝手に口から溢れた。あれ。もっと他に言いたいことがあるはずなのにうまく言葉が見つからない。どうしよう。

「今日はやめておくわね。ありがとう」

「あ」と思ったときには薫さんはくるりと振り返って行ってしまった。手元に残ったスカートを見つめているうちに、なぜか目頭が熱くなる。私はこの商品を本当に良いと思っていたのだろうか。何が良かったのだろうか。このスカートのどこが薫さんに似合うと思ったのだろうか。

ほつれがまたできた。

どこが良かったのかスラスラと言えない。なんでだろう。もしかして私、そもそもなんにも考えていなかったのかもしれない。

一旦バックヤードに下がる。スカートをハンガーにかけながら気持ちを落ち着かせる。けれどプツプツとできた穴が一気に広がっていく気がして顔を上げられない。

これまで自分の人生を歩んできたはずなのに、なんだか全部“足りなかった”ように感じてしまう。私って何をどうしたいんだっけ。後輩や同僚は一生懸命頑張っているのに。友達は資格試験に向けて勉強しているのに。結婚して子どもが生まれているのに。私は何もできてやしない。ああ、全部わからない。ボコボコと私に穴が空いていく。もう丸ごと捨てて買い替えたい気分だ。


すっきりとしない感情をどう整理したらいいのだろう。仕事終わり、行きつけの喫茶店に飛び込んだ。

目の前に置かれたカフェオレから湯気が上がる。ぼんやり見つめながら、私は今何にモヤモヤしているんだろうと思った。薫さんに言われたから?洋服をうまく選べなかったから?勢いよくカップを手に取り口をつける。熱々のカフェオレが喉を通る。どちらも違う気がした。

ボーンと壁にかかっている年季の入った時計が鳴いた。今すぐ叫びだしたい気持ちが全身を駆け巡った。

何かしんどい。ここ最近ずっとしんどい。なんでしんどいの。なんでみんな平気なの。気にならないの。焦らないの。悔しくないの。

叫びだしたい気持ちをグッとこらえて、カバンの中からノートとペンを取り出した。

すうっと一息吸い込んで、力任せに「しんどい」と書いた。しんどいしんどいしんどい。なんでなんでなんで。何が嫌なの。私はどうしたいの。ノートに書き出した途端、これまで引っかかっていたモヤモヤや不安が連想ゲームのように一気に湧いてきた。

単語だったり、文章だったり、ときには言葉が出てこなくてグリグリとノートを黒く塗りつぶす。仕事のこと、自分のこと、健斗のこと、将来のこと。ノートをめくり、ひたすら書く。

これ以上一言も出てこないと思ったとき、どっと腕が重くなり我に返った。不思議な充実感が広がって、なぜか清々しい。まわりが気にならないくらい集中したのはいつぶりだろうか。カフェオレはもうすっかり冷めきっている。

「もしかして、お客様も“ゴジアイ”ですか?」

「えっ?」

突然降ってきた声にバッと顔を上げると、水を注ぎにきたマスターが私を見つめていた。丸いメガネをかけ、髪の毛はオールバックですっきりとまとめている。背はそこまで高くなく、ややふっくらとした体型。年齢は40代半ばくらい。いつも注文時とお会計のときに少し世間話をする程度だったので驚いた。

「……あ、いやこれは別に。その、ただノートに書いていただけで」

とっさにノートを閉じる。中身を見られるのは恥ずかしかった。

「大変失礼しました!てっきりゴジアイをされているかと思って話しかけてしまって」

“ゴジアイ”とはなんだろう。マスターは申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。すぐに持ち場へ戻ろうとする後ろ姿に、思わず声をかけてしまった。

「あの、ゴジアイってなんですか?」

***


20時40分。茶葉がしっかりと開いたティーポットを傾けて、カップへ紅茶を注ぐ。とくとくと流れてくる赤茶色を見ていると、荒れた心が静まっていく。

「ご自愛は『自分を大切に思うこと』です」と優しく教えてくれたマスターを思い出した。あの日以来、私の中で「ご自愛」が欠かせないものになっている。

そもそも「自愛」ってなんだっけ。辞書で調べてみると「健康状態に気をつけ、自分を大切にすること」と書いてあった。よく手紙やメールに「ご自愛ください」と書くけれど、マスター曰く「ご自愛」は相手だけではなく、自分自身にこそ行うべきとのことだった。

「何事もまずは“自分”が基本です。自分を大切にできていないと、まわりの人も大切にできないと僕は思います。人に優しくできるのも、誰かを助けられるのも、自分の心身が健康でないとできないし、続かない」

「自分が、基本」

「はい。大人になればなるほど選択肢が増えるので、自分を知らないとあっというまに迷子になってしまいますから」

低く、優しく話す声が響く。店内は他にもお客さんがいたはずなのに、今この瞬間は私たちの声しか聞こえない。

「ご自愛は、自分が今何を感じているのか、どうしたかったのか。自問自答をして自分を慰めたり励ましたりする時間です」

マスターの声や佇まいは今までも知っていたはずなのに、なぜかその日は初めて会った人のように思えた。

「もちろんご自愛のやり方に正解なんてありませんし、感じ方も人それぞれです。一人一人にとって『ご自愛とは』の答えは違います。何よりも『今自分を大切にしてあげられているな』と感じられる瞬間を作ることが大切だと思います」

「大人は簡単に我慢ができちゃいますからね」マスターはそう言って優しく微笑み、カウンターへ戻って行った。


ご自愛を教えてくれたマスターの言葉を思い出しながら「いただきます」と両手を合わせる。苺のタルトをサクッとかじった瞬間、今日の私のご自愛が始まった。

休みの前日の静かな夜。私はいつも数時間ご自愛をしている。決めたルールは5つ。

  1. スマホの電源をオフにすること

  2. 一番好きな服を着ること

  3. 自分をゲストだと思ってもてなすこと

  4. 本音をさらけ出すこと

  5. その本音に疑問符をつけること

スマホの電源を落として、一人きりになって、自分と向き合う。今一番好きな服を着て、気分を上げるために必要なものを準備する。誰かを家に招いておもてなしをするように、心地いい空間を考える。思っていることを書いてもいいし、歌ってもいいし、泣いてもいいし、叫んでもいい。嘘はつかずに私が感じていることを吐き出す。

そして、吐き出した本音に一つ一つ疑問符をつけて、自分以外の誰かに流されていないか問いかける。

ーーみんな成長しているから、私も成長しなきゃ。

本当にそう?

ーー早く結婚しなきゃ。

本当にそう?

ーー年相応の格好をしなきゃ。

本当にそう?

いや、本当はそうじゃない。

私にとってのご自愛は「本当はそうじゃない」を知る“儀式”なのだ。



***


時計を見ると2時間が経過していた。

今日のご自愛ではケーキを食べ、紅茶を飲み、ノートに文字を書いた。書き終わったら読みたかった雑誌を読み、ぼんやりとして、また紅茶を飲んだ。たったこれだけのことだけど、ご自愛は「私は私のままでいい」と思わせてくれる。ホロホロと広がったほつれを一つずつ繕うように。

ご自愛をし始めて、ニットに空いた穴は少しずつ減ってきている。

私のご自愛ライフは、まだまだ始まったばかりだ。もっともっとうまくなって、自分を大切に思いたい。うーんと大きく伸びをして、お風呂の準備をしようと立ち上がった。

また明日からも、頑張ろう。

あの日、マスターがなぜ私に声をかけたのか。知るのはもう少し先の話。

「今度はどんなご自愛をしようかな」

息を吹いてキャンドルを消した。

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illustration by:キコ

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田中青紗(たなか あさ)
最後まで読んでいただきありがとうございます!短編小説、エッセイを主に書いています。また遊びにきてください♪