さびしいときのおまじない
大好きだった人が去って6週間、特別としかいいようのない人が去って2週間が経つ。
今日初めて、もらったろうそくに火を灯した。
「さびしくなったら使って」と渡された和ろうそく。もっと早く使うと思ってた。
ろうそくをくれた人の言う「さびしいとき」は、はたして今を想定していたのだろうか。それともふたりが去ったときを意味していたのだろうか。
大好きだった人が去ったとき、ろうそくはテーブルの上に置いてあった。いつでも灯せるように、手の届くところに出したけれど、使う気にならなかった。
特別な人を送っていったとき、実は荷物に入れていた。さよならした後、きっとたまらなくなる。そんな予想に反して、泊まった宿で灯すことはなかった。
その後も、ふたりの姿がなくなったシェアハウス本宅を訪れても、ひとりで家にいても、どこで何をしていようと、ろうそくに手は伸びない。
たしかに8月9月と慌ただしかった。忙しくて、やることがたくさんあって、ふたりがいないことについて考えたり、ゆっくり思い出に浸ったりする間はなく。そんな言い訳をしたくなる。
クラファンの準備もあり、目標だったお惣菜屋さんの出店もあり、目の前のことに忙殺されていたから。はたしてそうだろうか。
今回はちゃんとたくさん泣いたから。別れに対する心の準備ができていたのかもしれない。いや、心の準備をする余裕も時間もなかった。
なのに、私はちっともろうそくを灯したいと思わなかった。
「ふたり、いなくなってけっこう経ちましたね」
「そだね、意外と慣れるもんだね。いないことに慣れるなんて思ってなかったけど」
元住民とそんな話をした。
もう寝ようと思ったとき、ふとその会話を思い出した。
ふたりがいなくても私の日常は変わらない。バイトに行き、帰って猫の世話をし、週末はなじみのバーで飲んだくれ、またバイトに行く。普通にごはんを食べ、ほかの住民と話し、ネコを抱きながら眠る。
ふたり残した大きな穴ぼこが悲しくて泣くなんてことはない。ふとしたときに思いはこみ上げるけれど、泣き崩れて家から出られないなんてことはなく。普通に変わらぬ日常をすごしている。
ちょっとだけさびしくなっちゃった
いないことに慣れてしまうんだなぁ
いなくても生きていけるし、暮らしていけるし、笑っていられる
それは去った人にも残った人にもよいことだけど
でも、ちょっとだけさびしい
大好き、特別、大切といった感情が霞んでいく。忘れたくないことも、きっとこの調子で忘れていく。でもそれも平気な顔でやりすごす。まるでなんでもないことのように。何もなかったかのように。
それがちょっとだけさびしい。
もらったろうそくは6個。すべてを使い切る頃、私はどこで何をしているんだろう。この2年半のことは覚えているだろうか。