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捨てるクソ野郎いれば拾う友だちあり

 昨日はひどい一日だった。昼はクソ野郎のせいで過去に引き戻され、夜はクソ野郎に怒鳴り散らされた。どうして世界にはクソ野郎がこんなにいるんだ!?

 捨てたはずの過去に見つかった。
 行方をくらまして偽名で暮らしてきたのだが、とうとう追手に見つかり、過去を清算するときが来た。何度か手紙が届いたのを無視していたら誰かがシェアハウスを訪ねてきたらしい。挙句の果てに、管理人に電話がかかってきた。
 私が恐怖で震えてるだけでなく、とうとう無関係な周囲の人にまで迷惑が及ぶ。もう逃げていられない。逃げる場所はない。立ち向かい、根っこから掘り起こして捨てることにした。

 数日前に届いた配達証明郵便を開封すると、1年前に父親は死んでいた。死んでなお、私を苦しめるとは。本当にクソ野郎だ。
 父親の再婚相手と、外国にいることを理由に父親を私に押し付け音信不通となった姉が遺産相続の手続きを終えたいらしい。そのために雇った司法書士と連絡をとり、書類に署名捺印をしてもらいたいそう。相変わらず自分の都合しか考えない人たち。
 事務的な電話であればかけられる。司法書士に電話をすると、自分の言いたいことを延々言い続ける。こちらが質問しようとしても譲らない。そして通話を終えると、受話器を置く前にうざうざ文句を言っている。クソジジイ、聞こえてんだよ。
 とにもかくにも、1月中になんとか手続きを終え、永遠に過去とかかわりを断つ。二度と誰にも私の平安を邪魔させない。

 不安と恐怖と怒りでいっぱいだったが、そうなることを見越して、友だちのところで電話していた。電話の前後、友だちとおしゃべりすることで今の自分を保つ。友だちが近くにいて、いつもと変わらない日常を感じられたから絶望せずに済んだ。
 もし家でこの電話をかけていたら、私にとって家の中は安全ではなくなっていただろう。でも友だちのところという日常から一歩踏み出した場所で、今の私を構成する大切な要素である友だちが一緒にいてくれたから、過去にふれても絶望せずにいられた。
 ありがとう、「今日、来ませんか?」と誘ってくれて。前も私の声にならない悲鳴を聞きつけて救ってくれた。ありがとう。

 夜、とある取材の再撮影に立ち会うため、別な友だちのところへ出かけた。
 時間になり、外へ出るとカメラマンとクライアントがいた。カメラマンは私をにらみつけ、「再撮なんてありえない。俺にもプライドがある」と怒鳴りつけた。
 渡された取材時の写真がどれもこれも使えないものばかり。ポエムのイメージ写真ですか?みたいなものしかない。看板の文字は見えず、というか写真の看板は明かりが消えている。自分が撮りたいものを撮りたいように撮っただけじゃないか。
「雰囲気を伝えたいから」「看板の文字は見えます!(「見えない」「読める」「読めない」の終わりなき応酬)」「全部おまかせで撮影なのに再撮なんてありえない」「だったら俺じゃなくてもいい」「現場で確認してOKしたでしょ(「してません」「した」「いいえ、私には一度も確認させてくれなかった!」の応酬)……
 自称、プロカメラマン。
 自分の撮影した写真を否定され、プライドが傷ついたと言う。お前ごときライターもどきに、プロカメラマンである俺が指図を受ける筋合いはない。ということを言いたいのであろう。

 たしかに私が再撮をクライアントに提案した。クライアントからは「再撮はない」との回答。「だったらカメラマンが撮影したすべてのカットをチェックさせてほしい。その中から選ぶ」と伝えたところ、クライアントは前言撤回、「再撮します」と連絡が来た。つまり、再撮はクライアントの判断だ。
 そのクライアントも再撮の現場に来た。にもかかわらず、カメラマンは私に怒鳴り散らし、それを見ているクライアントは沈黙。結果、私が悪者となり、カメラマンの八つ当たりを一身に浴びる。人生で一番書きたかった記事の写真ということもあり負けたくない。でもきつい昼間を経てエネルギーは残りわずか。
 いい写真を撮るのはお前の仕事だろう。ちゃんと使える写真を出せなかったから、今回こそはいい写真を渡す。それがカメラマンのプライドじゃないんかい。私の知るプロカメラマンは「クライアントを満足させるのは最低限、プロなら驚かせないといけない」と言った。お前は何のために撮影した? クライアントを満足させるためじゃないんかい。自己満足のために撮影するのはプロじゃねーぞ。
 とは言わなかった。言っても理解できないだろう。プロである覚悟がない、自称プロカメラマンには。

 カメラマンとクライアントが帰った後、友だちの店に戻った。昼間、追手に逃げ場を奪われた恐怖が冷めやらぬうちに、30分ほど怒鳴り散らされ、私の心臓はキュッと縮こまってしまった。
 そのまま帰ったら、私は8号線をノーブレーキでアクセル踏み続けたかもしれない。あっちもこっちも、クソ野郎ばかり。私の近くにはクソ野郎しかいない。それもこれも私がクソ野郎だから。
 でも、そこが友だちの店だったから、私は今も生きている。
 仲のいい常連さんが持ってきたクリスマスケーキを食べ、ここでよく会うメンツとなんてことないおしゃべりをし、みんなでお好み焼きもどきをあーでもないこーでもない言いながらつくって食べた。どの人もクソ野郎じゃない。耳障りの悪いことが聞こえてくるときもあるけれど、私を追い詰めることもしないし、怒鳴りつけることもしない。ただ和やかな時間が流れていく。
 最後は、友だちと今日飛び込みで来たお客さんの3人でおしゃべり。途中、のどに刺さった小骨のように気になっていたことを友だちに謝る機会を得た。少なくとも自分の過ちに気づいて謝れるクソ野郎でありたい。そうできたことで、なんだか少し救われた。ありがとう。いつも甘えて迷惑かけてごめんなさい。

 自分がクソ野郎だから、クソ野郎に追い詰められ、心を削られ、生きてることが面倒になる。こんな思いをするくらいなら死んでもいいと、最近よく思う。
 けれど、こんなクソ野郎の私の近くにも安心できる人たちがいる。この人たちがいるから、タナカアキとしての日常を生きていられる。私はタナカアキである自分が好きだし、この人生を全うしたい。クソ野郎に負けてなるのものか。絶対、負けない。私は私であるために、私を守るために戦う。
 朝5時半すぎ、友だちの店を出た。悪くない一日だった。また明日も生きよう。




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