たとえば、
※ 勝手に寄付先が掲示されるので、国名を変更します。
基本、自分の意見や考えは述べるけれど、「こうした方がいい!」「それはしちゃだめ!」とはあまり言わない。いや、たまに論が盛り上がって「いや、それは間違ってる。こうしなくちゃ!」と言っているかもしれない。でも、本当はどうでもいい。だって他人事だから。
私はすごく冷たい人間で、他人に興味がない。人間という生き物には興味津々なのだが、知り合いや友だちへの愛情がおそらく一般的な人よりも薄い。みんなが「誰々ちゃん、そんなの自分を大切にしてないよ。もっとこうした方がいいよ。絶対その方が幸せになるから」なんてことを言ってると、他人事にそこまでよく共感して口を出せるなぁと感心してしまう。(ちょっと皮肉)
正義感がないわけではないので、社会や会社などの問題点を「こうすべきだ」「間違ってる」と言うことはある。ものすごく。最近は社会に対する興味も薄くなって言わなくなってきたけれど。
たとえば、友だちが出産して、幼子を連れて渡航しようとしているとする。渡航先には愛する人がいて、そこでその人と3人で暮らしたいと考えている。しかし、そこがFランドで、Rシアが侵攻するかもしれないという可能性があり、どうしようか迷っている。
そういう状況で、「絶対行かない方がいい。言葉も十分には通じない、習慣も違う外国で、もしものとこがあったらどうするの。日本にいれば、親も友だちもいる。安心できる場所で子育てしなよ」なんてことは絶対に言わない。だって、本人が行きたいんだもの。
私なら、「優先順位は愛する人、子どもの順? それとも逆? その優先順位に従って、行くか行かないか決めれば? 愛する人のそばにいたいのか、親や友だちに手伝ってもらって子育てしたいのか。日本だったら公的支援金がもらえるけど、Fランドだったらたぶん子どものものはすべて無税のはず。日本は言葉が通じるとはいえ、話が通じない人は多々いるわけで。それに、Rシア軍がFランドに侵攻する可能性は今すぐはないよ、おそらく。メリットがないもん。可能性が出てくれば退避すればいいんじゃない?」と言う。
選択肢の提示をしたり、検討材料を伝えるけれど、その先、どうするかまでは知らない。その人が決めることだから。「こうした方がいい」なんて言った責任はとれないし、とりたくもない。
そう、他人について責任をとりたくない。だから私の人間関係は薄いのかもしれない。人はもっと積極的に、深くかかわるから、「友だち」と認定されるし、連絡も取り合うし、仲よくできるのだろう。
だから私は傍観者なのか、それとも傍観者だからそんなふうなのか。他人事でも自分事のように考えられる人もいれば、私のように他人事で済ませてしまう人もいる。悲しいかな。悲しくないけど。
他人事で「こうした方がいい」と言うとき、そこには自分がいる。「自分ならこうする」を言っているはず。相手の状況や気持ちはさておき。
そんなことはない、と反論するかもしれない。相手の状況や気持ちは聞いたし、考えたし、その上で言っている、と。
でも、聞いたことがすべてではない。人の気持ちは複雑だ。一瞬一瞬で変化する。状況も、人には言えないこともあるだろう。そして、その人のことを考えてるようで、実は考えてない。自分ならこうする、友だちにはこうして欲しいという、自分の気持ちや考えが1ミリも入ってないと言えるだろうか。
それでも、他人事を自分事として考え、よかれと思うことを助言するのはすごいこと。私にはできないことだもの。自分に絶対の自信があるのもすごいと思う。私は間違いだらけの人生を送ってきているから、自分の選択が正しいなんて思えない。これは皮肉でもなんでもなく、本当に。
多くの人はこんなにも他人のことを考えているんだな。私ってやっぱり人として欠けてるものが(たくさん)あるな。人の負の感情への共感はめちゃくちゃあるのに、それでもなお傍観者なんだよな。
まあ、いいけど。たとえば、の話だしね。(だって私の友だちにはそんな状況の人はいないもの)
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