まずは自分で
好きな人が困っていたら手を貸したい。一方で、私の心の中にはずっとずっと「誰かに救ってもらいたい」という思いがこびりついている。
自分が「救われたい」と思っているから、好きな人を救いたいのかもしれない。けれど私にそんな力はないから、とりあえずできることをする。「救う」「助ける」なんていうのは驕っていて、私にできるのは「手を貸す」ことくらい。
好きな人が望んでいることの10分の1くらいにしかならないかもしれない。そんなの私のエゴかもしれない。いや、きっとエゴ。
親切の押し売りはよくないとわかっていても、自分がしてもらったらありがたいと思うことをやる。
でも、手を貸すには、ひとつ条件がある。
「自分で自分を救おうとしていること」。
私にできるのは、ほんの少し手を貸すことだけ。誰かに救ってもらいたいのかもしれないけれど、自分を救えるのは自分だけだから。
自分で自分を救うための努力をしていない人は、手を貸すことを躊躇する。だって、貸した手は淡雪のようにすぐさま溶けてなくなってしまう。私だけでなく、誰が貸した手も、どんなに頑丈な手も、消えてなくなる。
だから自分で自分を救おうとしている人じゃないと、貸してもらった手は生かせない。
努力は好きじゃない。必死なのも苦手。でも自分を救うためには、必死に努力しなくちゃならない。
そして必死さが伝わるから、人は手を貸そうとするのだと思う。そうでなければ手は集まらない。差し出す人はいなくなる。
自分で自分を救おうとしない人のために、自分のリソースを割きたいと思いますか?
人任せで救われようとする人のために何かしたいと思いますか?
自分を鑑みるに、「誰かに救われたい」と待っている姿はちっとも助けが必要には見えない。「救われたい」というのは切実な願いのはずなのに、動こうとしないからちっとも切実さが伝わらない。
そして「”誰か”に救われたい」と思いながらも、必死で自分を自分で救おうとしていたら、案外”自力で”浮上できるんじゃないか。もちろん、人の手につかまりながらだけど。
いつも人に助けられる人生。必死さも努力も足りないのに手を貸してくれる人に恵まれて生きてこられた。
でもいつまでも続くものじゃない。
自立しなくては。自律しなくては。自助努力しなければ、この先はない。