私が世界の中心
物事がうまくいかなかったとき、原因を自分の外に求める人と、内に探す人がいる。「あの人のせいで失敗した」と「私のせいで失敗した」。私は断然後者だ。
バタフライエフェクト信者ゆえ、たとえ明らかに誰かに非があるとわかっていても、私のお箸の上げ下げが影響を及ぼしたのではないかと疑ってしまう。だから常に「自分のせい」と落ち込む。
誰のせいにもしないから、一見とてもよい人そうだが、実はそうでもない。究極のエゴイストといえる。(少なくとも私については)
だって、すべて私のせいなのだもの。私は神だと言っているようなもの。いや実際、そうなのだが。
私が生きるこの世界において、世界は私を中心に回っている。私がこの世を支配していると言いたいのではない。私の人生の中心は私である、ということ。
世の中には、たくさんの世界がある。その中心は私だったり、あなただったり、あの人だったり、この人だったり、知らない人だったり。(ほとんど知らない人だわね)
私の世界の中にあなたはいて、あなたの世界の中に私はいる。つまりは視点の移動といえるかもしれない。
それぞれの世界が交差して、人は出会い、ともに時間をすごし、別れ、世界は離れていく。その繰り返し。
だから、私の生きるこの世界で起こることは、すべて私に由来する。
この私の理論でいけば、「あの人のせいで失敗した」と言う人は、自分の世界がないことになる。
他人の世界の中にいて、他人の影響で右往左往するばかり。いいことも悪いことも、自分によるものではない。誰かのおかげでいいことが起き、誰かのせいで悪いことが起こる。
とはいかない。
おもしろいことに、誰かのせいで悪いことは起こるけれど、いいことは自分のおかげだという。これは私が思うことではなく、「あの人のせいで失敗した」と言う人たちを観察してきた結果だ。
二軸の世界で生きている。
自分軸しか持たない私から見たら、なんとも大変そう。両足を開いて立ち、出来事が起こるたび、重心を右足に移したり、左足に移したり。せわしなくて疲れてしまう。
私軸しかないことのメリットは、単純だということ。そう、私は複雑なのが苦手なのだ!
いいことが起こったら、日頃の行いに感謝する。悪いことが起こったら、日頃の行いを後悔する。
そしてもうひとつ、他人から受ける影響が少ないこと。特に悪い影響は少なくて済む。
あの人に認められたい。あの人に好かれたい。あの人に感謝されたい。あの人に大事にされたい。あの人のために。あの人のために。あの人のために。
あの人を自分の思い通りに動かしたくても、動かせるわけがない。だって、あの人はあの人だもの。あの人が認めたい人を認め、好きになりたい人を好きになり、感謝したいときに感謝したい人に感謝し、大事にしたい人だけ大事にする。あの人のためにと行動しても、あの人がそれを見てるとは限らないし、気づくとも限らない。気づいたとして、それを評価するかは、あの人次第。
結局、あの人に振り回される。そりゃ、ネガティブになるよ。
私もあの人に何かする。たとえば、落とし物を拾ってそっと荷物の上に置くとか。お刺身を注文したらお醤油をそっと近くへ置くとか。話を聞いてほしそうにしてたら聞くとか。好きなものがあったら、そっと届けるとか。
それをして認められたいわけでも、好きになって欲しいわけでも、感謝されたいわけでもない。ただ私がしたいからするだけ。私が満足するため。
ときどき、こういうところが異常だなと思う。やべー奴だと自覚している。
けれど、だからとっても楽に生きている。
すべてを自分のせいにするのも苦しい。自分を責めるし、落ち込むし、自信を失う。でもだから自分を守るために省みて、次はこうしよう、こうしないでおこうと考える。できるできないは別として。
誰かのせいにしてしまったら、相手に委ねるしかない。無理。だって私はコントロール・フリークだもの。
もちろん、それでも他人に期待してしまうことは多々ある。そして裏切られることも多々ある。
けれどこの場合の「裏切られる」は仕方ないと心得てる。私にコントロールできるのは私だけ。悲しいかな、他人をコントロールはできない。したいけど。世界のすべてをコントロールしたいけれども。
私は私の生きる世界の中心で、世界に起こることは私に由来するけれど、私以外をコントロールすることはできない。できるのは、省みて次がないようにすること。だけ。
私は、私の生きる世界にいる、私が好きだったり、大切だったりする人たちに幸せであってもらいたい。そのためにできることはする。でもそれが幸せにつながる保証がないことを承知している。なのに、する。自分のために。
エゴイスト、ここに極まれり。やべー奴だってわかってるから言わないで。
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす