荷物の意味

オンラインサロンでの友人の投稿。
「無駄、邪魔、足を引っ張るとしか思ってなかった物事で、今の自分を作ってくれてると思うものはあるか?」

私の場合はこれかな。
・お行儀
・展覧会
・クラシック音楽
・本
・ネコ

小さい頃からしつけられてきた。
それに反発して変なおはしの持ち方をしたため、今はちゃんとしてる風にしか持てない。ちょっと恥ずかしい。
カツ丼とかラーメンを食べたいのに、会席料理とかフレンチフルコースとかに連れて行かれた。今はそんなとこに行かないけれど、もし誰かを連れて行ったり、連れて行かれたりしても困らない。
口を閉じてごはんを食べる、ひじをついてごはんを食べない、お茶の淹れ方、靴の脱ぎ方、急いでいる人に道を譲る、、ちょっとしたことだけれど大事なことが身についている。よかった、と思うことしばしば。

母親に連れられて展覧会によく行った。
こんなもん見るより友だちと遊びたい、テレビ見たいと思っていた。
シャガール、ミロ、マティス、ユトリロ、クレー、ムーア、さらには安藤忠雄、ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ガウディ。クラシックバレエ、モダンバレエ、アキコ・カンダ、ベジャール。
たくさんのアートに触れる機会を与えられたおかげで、自分の好みが確立した。絵も彫刻も書も、建築もダンスも写真も芝居も大好き。
惜しむらくは、触れる機会の少ない田舎に住んでいて、観に行くお金がないこと。

クラシック音楽も同じく。
ピアノを習っていたけれど、大嫌いでよくサボった。でも、そのおかげで楽譜は読めるし、ちょっとなら弾ける。ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートは大好きだ。
ロックだけじゃなく、クラシックもジャズも好き。もちろん、ソウル、R&Bも。
音楽を好きになるきっかけは、間違いなく幼少期に与えられたから。

小学校に入る前から、私は活字中毒だった。いわさきちひろ、斎藤隆介と滝平二郎の本を毎日読んでいた。
小学校へ入ると、3年生までは祖父母の家に帰宅していた。そこにはあまり本がなく、祖母の買った週刊誌を読みまくった。カーセックス特集や浮気の投稿、なんでもよかった。
小5のときのクリスマス。福音館か岩波かの立派なハードカバーの全集がプレゼントだった。うれしくてうれしくて、片っ端から読んでいった。
お正月がすぎ、もらったお年玉を貯金しに行くと、通帳からお金が引き出されていた。クリスマスプレゼントの全集は、貯金で買ったもの。
マンガもおもちゃも禁止だったので、貯金しても結局使えない。でも、いつか自分でお金を管理できるようになったら、好きなものを買うんだ!と思っていたのに。
そんなこともあったけれど、全集は何度も読み直すくらいお気に入りだったし、本のある生活は今につながる。マンガも読むけど、今は本の方が欲しい。

親から与えられたものが、私の基礎となっている。
好きなものの形成は、間違いなく与えられたもののおかげ。
同級生がマンガやおもちゃで遊んでいる中、私は本を与えられ、展覧会に連れて行かれ、会席料理を食べていた。それを楽しくないと思っていたけれど、その経験がなければ今の私はない。

今の私が、社会とのつながりを維持しているのは、ネコのおかげ。
ネコを看取るという使命をまっとうするため、私は社会の一員でいる。そうでなければ、本もアートも全部捨てて、世捨て人になっていた。間違いなく。今でもそっち側に片足を突っ込んでいる。
それでも落ちずにいられるのは、ネコを最期まで世話しないといけないから。そして、ネコを通じて人とつながっているから。
自由に旅できない、行きたいときに行けない、毎日帰らないといけない。エサが欲しい、なでて、抱っこしてと要求ばかりされる。ネコと暮らすのは窮屈で腹立たしい。
だけど、捨てられない。邪魔だけど捨てられない。置き去りにできない。
自分を信じて待ってるネコたちを放ってはおけない。

「親」「家族」「血縁」という、投げ捨てた背負ってた荷物も、なにか私を作っているのかもしれない。
でもそれは考えない。
もう捨てたものだから。
考える日は来るかもしれない。それはそれでよし。
でもまだそのときではない。



ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす