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メビウスの輪理論
一日が終わる。
こうして一日が終わるごとに一生の終わりに近づいていく。
昨夜、仕事を終えたのが3時頃だったか。納品先に「こんな時間までやってもらって」と言われたが、本当であればもっと早くに納品できていいはず。手が遅いのだ。
さて、寝ようか。明日は少しゆっくり起きて、と考えていたのだが、気づくと釣りの準備をしていた。
しかし起きてから行くと遅くなる。涼しくなり、冬眠モードになってきたのか朝が起きられない。
朝の釣れる時間に行くためには今から出るしかない。
真っ暗な中、家を出て海へ向かう道を進む。
運転しながら「最近、死ぬことばかり考えてるなぁ」と思う。
死にたいということではなく、死ぬ準備、死んだときの準備をしなくてはという考えが、ぽこぽこパーコレーターのように湧き出てくる。
「そうか、死が近いことを薄く記憶してるのか」
私はひとつの死に対する考えを持っている。
死んだら再び生まれた日に戻り最初から人生をやり直す。ただし、記憶は一切なく、あやまちを正すことはできない。同じあやまちをし、同じ後悔をし、死ぬ。そしてまた同じ人生を生き、死ぬ。
メビウスの輪のように生と死が無限に続く。
だがときどき、なんでもないことだけ記憶がよみがえる。
「あれ、これなんか知ってる。見たことある」
デジャヴュは、果てしなく繰り返す同じ人生の欠片。
こうして死の準備について考えるのは、人生でそのときが近づいていると記憶が作動してるからではないか。
だとしたら、もしかすると眠いのに運転したことで、事故を起こすのかもしれない。じゃあ危険を回避するため、家に帰ろうとする。それはすでに組み込まれていて、家に帰る途中で事故を起こす。
なにがどうであれ、死ぬ日、死ぬ時間、死ぬ原因、死ぬ場所は変えられない。もう決まっている。
その瞬間が来るのを待つしかない。
死ぬかもしれないと釣りに行き、ヤバイと思うくらい眠たくなりながら家に帰り着いた。
どうやら私のそのときはまだだったみたいだ。いや、まだ今日は終わってない。
たとえ今日であろうが、明日であろうが、そのときは必ず来る。逃れる術はない。
「そっか、今なのか」と受け入れるしかない。
さ、お風呂屋さんに行ってこよう。
これが最後になるかもしれない。
なにひとつ無意味なことはない。すべては決められた死に向かう過程のひとつ。
いつだって、なんだって、最後になるかもしれない。大切にしなくては。
たとえ再び同じ経験をするとしても。今クールは一度しかないのだから。
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