勝手にアンサー
朝イチ、お布団の中で家主の論を読んだ。その私感みたいなものを書く。
2年くらい前に知り合った家主は「自由と寛容」をずっと声高に説いていて、私は「は?」って感じだった。だって、私にとっては自由も寛容も多様も「そこにあるもの」だから。実現できるかどうかではなく、誰が気づくでもなく、ただ「そこにあるもの」。空気と同じ。
たぶん家主も同じ感覚なのだろうが、違うのは実現することを目指していること。「そこにある」と気づかせたい、知らせたいって感じかな。たぶん。あくまで私の感想。
私は、自分は知っている、知っている人は知っている、それでいいと思っていた。そして誰もが知る日は来ないし、知ってしまったら別な意味での実現不可な現実をも知ることになって、知らなければ穏やかに暮らせたのにざわざわした気持ちで生きることになることが、はたしていいことなのかだろうかと思っていた。
今回、ちょっと意見が変わったかも。
自由も寛容も多様も可能性も、なにもかも「そこにある」と知ることは必要かもしれない。なぜなら、最近、否定されたから。
いろんなもの、いろんな人、いろんな考え、あらゆるいろんなものが「そこにある」と知れば、否定は発生しない。自分が「そこにいる(ある)」一要素であるなら、別な一要素を否定することは自分を否定することにつながる。自分が「そこにいる」ように、ほかの人も人以外のものも「そこにある」。
否定は選別であり、優劣をつけるものだと思う。自分とは違うという認識はあってもいいけれど、選別して自分との間に線を引くのはよくない気がする。「自分とは違うから」「自分は関係ないから」「自分はああではないから」と、そっちを顧みない。つまりは、違うから存在しなくてもいいと消去する方へ進み、戦争や虐殺へつながるのではないか。
ただし、私も線を引くことはあるし、否定することもある。だからいろんなものが「そこにある」と、私自身はまだ腑に落ちきってないのかもしれない。あ、もう一度ただし、嫌いと否定は違う。好ましくない人・ものも「そこにいる」のが当然。それもまたいろんな要素のひとつだと思っている。
じゃあ次は、自由も寛容も多様も可能性も「そこにある」と誰もが知るのが困難な理由と、「そこにある」ことを知ったがゆえの落胆について。
誰もが自由も寛容も多様も可能性も「そこにある」と知ることを、世界は望んでないと思う。この世界とはなにかというと、いわゆる権力を持つ人たち。世界はこの人たちのもので、この人たちがコントロールしている。そういうと「陰謀論?」と鼻で笑われるけれど。
そしてまた、コントロールされる側、権力を持たない人たちの中にいる、実は「そこにある」と薄々気づいている人たちの中にも、「そこにある」ことを知りたくない人はたくさんいると思う。「そこにある」としても、それを体感できるのは選ばれし少数だけという現実から目をそむけたいのではないか。
私たちはカゴの中の鳥で、自由も寛容も多様も可能性もカゴの向こうにある。ほんすぐそばだが、悲しいかな、カゴの中から手にすることはできない。「そこにある」ことが見えているがゆえに、見たくない自分の境遇を突きつけられる。
そして、カゴから出られた鳥を見て、いつか自分もああなりたいと願う。カゴの外に出られた自分を見て、今の自分のように「ああなりたい」と思われたいと願う。優越感に浸りたい、特別な立場になった自分を見せつけたい。あるいは、カゴの外に出る価値は、カゴの中にいる鳥がいるからこそのものだと思う人も多いのではないか。
太古から今に至るまで、否定や差別、争いがなくならないのは、そういうことだと思う。搾取される側から搾取する側になりたい。貶められる側から貶める側になりたい。立場を逆転させたいと思う人は多い。
みんなが幸せ、みんなが豊かではだめなのだ。自分より不幸、自分より貧しい人がいるから、幸せも豊かさも感じられる。
家主は、私が「自由も寛容も多様も可能性も『そこにある』と知らしめるのは不可能」と述べる根拠(といえるほどのものではないけど)を打ち砕くための施策を考えている。たぶん、おそらく。
おそろしいほどの理想家。夢想ではなく、実装するためにどうしたらいいかを考えている。たぶん、おそらく。私の勝手な解釈だが。
かつて私の父親は平等な世界を作りたいと戦った。人の善良さを信じ、夢みたいなことを語っていた。小さな世界のカリスマは、支持者に囲まれ、現実が見えてなかった。支持者が世界のすべてと勘違いし、実現できると信じていた。
家主の方はどうなのだろう。私の父に比べるとリアリストで、人に対する期待もない。自分色のレンズで都合よく社会を見ているふうではない。
彼が社会を変える日を見ることはできるだろうか。彼が変えた社会で暮らせたら、そのときは死んでもいいかも。