間接的にあなたを知る
ある人に対する「こういう人だね」という内容が自分と異なるとき、「そんなことないよ」とあまり言わなくなった。
以前は自分が正しいのだと、私の知っている、あるいは私が感じている「こういう人」を力説し、納得させようとしていた。でも、私が見たあの人は私のあの人で、誰々さんが見たあの人は私の知らない、誰々さんのあの人だからしょうがない。
人は多面体で、私に見えている、見せられている面があるように、私に見えない、見せないようにしている面があるのだろう。私がまさにそうで、誰にでも見せる表の面と、特定の人にだけ見せる面、一切誰にも見せない面がある。ってことは、ほかの人も同じだよね。
私の思う「こういう人」も、ほかの人の「こういう人」も並立しているから、ほかの人の「こういう人」を否定するのは私の「こういう人」を否定するのと同じ。だから、そういう面もあるのかな、そういう見方もあるのかなとか、解釈の仕方から相手のことも知れるなと思っている。
一緒にあの人の言葉を聞いても、同じように受け取るとは限らない。「ありがとう」を聞いても、受け取り手の経験やあの人との関係によって感謝だったり、皮肉だったり、感じ方が変わってくる。
言葉は本当に受け取り手次第。最近、強くそう思う。
言葉は言葉単体で存在しているのではなく、発する人との関係や相手への自分の感情によって変わる。だから同席したからといって、同じ受け取り方をすることはない。似ていたとしても、どこかしら差異はあると思っている。
それは人そのものも同じ。好意的に見ているのか、関心がないのか、あるいは敵意を抱いているのか。それによって言葉の受け取り方、行動への感じ方が変わる。
相手との関係以外にも、自分の経験や環境、育ちなどで解釈は変わり、自分の内面が相手に投影される。
噂話ではなく、PさんについてQさんと話すのが好きだ。Pさんのあんなことやこんなこと、お互いの持ち札を出し合う。私の出した△に対し、Qさんは私が思ったこともないような解釈を提示する。Qさんが出したPさんについての持ち札も、へーそんなとこ見てるんだと興味深い。
つまり、Pさんについて話しているのに、私はQさんのことを知っていく。ここにはいないPさんを媒介してQさんについてデータを得る。
そしてQさんの語るPさんは、それはそれでおもしろいけれど、ごめん、それはどうでもいいんだ。だって、私は誰かの目に映るPさんに興味ないから。私は、私の目に映るPさんしか見ない。
それにしても、データが集まるのはいいけれど、最近はちょっと食傷気味。データ量が多すぎて、おなかいっぱい。もうしばらくは人間観察いいかな。ちょっと疲れたである。
なぜデータを集めてるのかというと……( ↓ )
ネコ4匹のQOL向上に使用しますので、よろしくお願いしまーす