悲しい気づき
昨夜ふと、自分は"ひと"というものに興味関心があまりないことに気づいた。薄々は思っていたことだが、昨夜確信めいたものを得た。いや、なにか劇的なことがあったわけではないけれど。
一方で、"人間"に対しては知りたいと思うことが多い。行動と、その動機となる気持ちを知りたいと強く思う。
なぜそうしたのか。どんな気持ちでそうしたのか。そうしなければどうなると考えたのか。そういう気持ちになったのはなぜか。どのようにしてこの人の気持ちと思考は形づくられたのか。
知りたい。データをとりたい。
なぜなら、私は人の気持ちがわからないから。感情への共感は人一倍強い。だが、感情の源である気持ちは「なんで?」となる。
感情は、たとえば喜怒哀楽。気持ちは、たとえばみんなと一緒にいたいと思う、友だちだから助けたいと思うの「〜と思う」の部分。
その人の発する悲しみや喜びは伝わる。でもなぜ悲しんでいるのか、わからない。
"人間"という生きものではなく、"ひと"である誰かを深く知りたいと思ったのは、ほんの数人。のはずだが、振り返ってみると本当にその人を知りたかったのか、自信がなくなる。
めったにないサンプルだから知りたかったのではないか。この人は今までとは違う行動パターンでおもしろそうだ。こういう人もいるのか、もしかすると新たなデータが得られるかもしれない。
その可能性を絶対とはいえないが、否定もできない。
あともうひとつ、その人が今に至る過程に興味を持つときもある。この人の行動、気持ち、思考はどこから形成されたのか、掘り進めていく。
掘り進めた結果、意外とこれまでのデータと違いがなく、結局は言葉のニュアンスの捉え方の違いだったのか、なんてところに落ち着くこともある。
こうして文字にしていくと、本当に私って嫌なヤツだなぁ。
たとえば、今日、コーヒーを飲みに行くカフェの店主夫妻。その近くの別なカフェの店主(と夫)。
みな、私にとてもよくしてくれる。こんな嫌なヤツなのに気づかってくれる。だから私はこの人たちを好きだと思う。
だが、単なるコーヒーを提供してくれるだけの人たちであったなら、はたして私はこの人たちと話をしただろうか。個人的なことを質問しただろうか。
シェアハウス住人に、いつも私を気づかってくれる人がいる。もしほかの多くの住人同様、あいさつしかしない関係であったなら、彼女が焼き魚を好きなことも、鷲羽山ハイランド推しなことも、橋に興味があることも、Google マップに山のように旗を立ててることも忘れただろう。
だが悲しいことに、この人たちを好きだけれど、”人間”を知ろうとするほどにはこの人たちを知りたいとは思っていない。
悲しいのだ。好きだと思う人たちでさえ、それほど知りたいと思わないことが。
じゃあ、私はなにを知りたいのか。
私は、私のことが知りたい。
かつて参加した田舎フリーランス養成講座(いなフリ)最終日、今後の自分の活動方針についてプレゼンをしたときのこと。
「私はモリ(このときの統括、今の家主)のことを知りたい。モリを知れば、自分自身を知ることができる気がするから」
今は自分との違いばかり目につくのだが、当時、自分と彼は似ていると思っていた。彼も「俺たち似てるもん」って言うし。
それなりに自分のことをわかってるつもりだったが、いなフリに参加して自分をもっと知らなくてはと思った。知らなければ、次の一歩の踏み出し先がわからないと考えたからだ。
どうやったら自分を知れるのか。
子どもの頃からやってきた人間観察、これを転換すればいい。自分と似ている人を観察し、知れば自分のこともわかるようになるはず。
だから苦手だけれど、この人との縁は切りたくないと思った。
自分と似ていると観察し、質問攻めにし、わかったこと。それは、私たちは似ていないということ。
正確には、似ているようで似ていない。
彼は”ひと”に興味を抱くし、”ひと”を愛する。”ひと”のために、手を貸す。
私も手を貸す。でも”ひと”のためじゃない。見てしまったから。見て、こうした方が効率的と判断したから、手を貸す。
彼は”ひと”を見ている。でも、私のようにデータ収集のために見てるんじゃない。その人がなにをするのか、どう感じてるのか、知りたいから。
彼は”ひと”に期待しない。自分の「こうあって欲しい」を押しつけない。フラットな状態でその人を見ているから、よいことがあると人一倍喜ぶ。
誕生日もクリスマスも、特に興味はないけれど、好きな人たちが楽しそうにしているから、彼も一緒に楽しむ。私のように「誕生日のなにがめでたいの?」なんてことを言わない。思っていても言わない。
意見や考え方に似たところはある。が、根っこと枝の向かう先が違う。
彼は”ひと”が好きで、好きな人たちが幸せそうな姿を見て自分も幸せを感じる。
私は”ひと”ではなく”人間”に興味があって、好きな人たちの行動ですら、その背後にある動機を探す。
自分は”ひと”に対する興味関心が薄いと悟った理由、それも彼による。
シェアハウス住人のひとりが、地域に根づいてきていることがうれしいとFBに投稿していた。それを見たとき、ああ、確実に彼と私は違うと確信を得た。
正直、その住人との距離が私と彼とでは倍以上違う。でも、別に彼女に悪い印象はない。だけど、へーそうなんだ以上の感想が出てこなかった。いいねも、よかったねもなく、うれしいは言わずもがな。
そこからたどっていくと、あらゆることに「へーそうなんだ」と思うことばかりで人のことを自分ごとのように喜んだのは、もう5年くらい前までさかのぼる。
ここ数年でいえば、いなフリ中に同期が初受注したときでさえ、「へーそうなんだ」と思っただけ。かつて人生で一番信頼した人が好きでたまらなかった人へ告白し、成功したときも「へーそうなんだ」。RENEW2020の成功に沸く人たちを見ても「へーそうなんだ」。
私は”ひと”に興味関心が薄い。人の喜びに共感はできても、自分ごとのように「うれしい」と思うことはできない。
ひとりでいることも、ひとりで死んでいくことも平気。
ただ、ちょっとだけ悲しい。