好き、とは
私は人を信頼しない。
信頼して裏切られることが多かったのでもう裏切られるのはごめんだから。
「信頼というより期待だろう、期待など、ましてや他人に期待などする者が悪い」というのは置いといて。
私の思う信頼はこう。
こうして欲しい、こうしないで欲しいとお願いする(伝える)
↓
合点承知の助(不承不承だろうとも)
↓
遂行
↓
信頼できるな(信頼できるだろうと思って依頼したけれども)
そもそも依頼の前段階で、それなりの交流を持ち、お互いについて少々理解し合えているという前提ありき。
信頼できそうだなと思って依頼し、遂行されたら信頼は確実なものとなる。
一方、信頼の積み重ねと交流によって得られた理解をぶち壊されること。これが私の言う「裏切り」。私の領分が人によって汚されることを嫌う潔癖症が、人間関係においても発揮される。
でもこの人になら裏切られてもいいと、ふと思った。公平性を重んじ、損することが大嫌いなのだが、この人になら利用されてしてもいいとさえ思った。
はっ! もしかすると、これが好きってことなのか!?
この人が幸せを感じられるのなら、私を最優先にしなくてもいい。この人が助かるのなら、私を使い捨ててもいい。
好きな人が幸せであるために、自分にできることをしたい。自己犠牲はなく、好きな人の幸せそうな様子を見ていると、自分もうれしくなるから。
好きな人に幸せであって欲しい。別に私と一緒にいなくとも。
これはいつも思うこと。一緒にいなくてもいいのだ。
近くで見れても、遠くで聞こえてきても、幸せだとわかるだけでうれしい。もう会うことはないだろう親方だけど、もし幸せにしていると風のたよりが届いたならば、うれしくてひとりで乾杯してしまうだろう。
違うのは、利用されても、裏切られてもいいと思えること。
たとえば、さびしいからすり寄ってきて、さびしくなくなったら姿を見せないとか。ひとりでつまんないときは誘うけど、よそで楽しくしているときは知らん顔とか。なでて欲しいときだけ近づいて、別な誰かになでて欲しくなるときびすを返すとか。
悲しいなぁと思うけれど、まあ仕方ないとため息をつく。たぶん。たぶん。
好きって悲しいもんなんだね。
いわゆる恋人同士なら悲しくないのかな? それとも両方ともが悲しいのかな?
はて。