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本当のはじめましてと出会いたい
田舎では、どこでもよくあることなのかもしれない。今、出会う人出会う人、ほぼほぼ知り合いの知り合い状態。私が、相手が何者かわからないなんてことが、ない。
誰かの知り合いなのは安心できる。共通の知り合いという保証があるから、私ような人間不信な人間には本当はいいはず。なのに、息苦しくってたまらない。
それはたぶん、相手もそうだし、自分もラベルを貼られた状態にあるからなのではないだろうか。「どこの誰」とか「何者」とか、肩書きというかラベルというかカテゴライズというか、ただの「タナカアキ」だけでない何かをまとっている窮屈さに叫びそうになる。
住民の誰それとどこそこで一緒だった◯◯さん。知り合いの誰それさんと同じコミュニティにいる◯◯さん。「ああ、誰それさんの知り合いなんですか」、その言葉は魔法のようだ。知り合いの知り合いであることがわかると、話は一気に進む。距離が一気に縮む。
けれど、その話はいつかどこかで聞いたような、既視感が拭えない。もちろん別人なのだから、出てくる話は別物だ。だけど、どこかで聞いたような気がして仕方ない。一度聞いたような気がするから、正直興味が薄れる。
初めて聞く話を収集しているわけではないけれど、初めての話はやっぱりわくわくする。そして私は話を聞くのが好き。聞いていてわくわくする話だと、話している人への興味が半端なく湧いてくる。
それはきっと、逆もしかりなのではないか。
たとえば、モリハウスのタナカアキ。私が暮らすシェアハウスの住民は出ていった人を含め、20人30人といる。私はそのうちのひとりで、他の20人30人との違いはあっても、名札の但し書きはみんな同じ。
誰とも違う私でありたい、わけではない。何者かでありたいわけでもない。
でも、ラベルを貼られた、カテゴライズされた私は、ただの私ではない気がする。そのラベル、カテゴリーの色眼鏡に染まった状態で、誰かの前に立つ。
お仕着せの制服を着せられたような。クラス分けされて並んでいるような。そっぽを向いていることすら、ラベル「らしさ」に見えてしまうような。
でもそれは仕方のないこと。田舎の人間関係は狭い。同じような色をまとった人たちは自然と同心円に集まってくる。自分も吸い寄せられていく。だからラベルを貼られることになるのだし、そこにカテゴライズされるのだ。
たとえばシェアハウス、たとえばいつものバー、たとえば日本酒イベント。居心地のよさで、ついそこに居着いてしまった。そこにいる人たちが好きだから、安心できるから離れがたい。
だけど一方で、そこにしかいないから、つながった人たちとしか出会わない。拡張はしていくけれど、まったくまっさらな人とは出会わない。
「ここではないどこかへ行きたい」といつも思ってきた。知らない場所で、知らない人しかいない場所で、まっさらな私となりたい。
なんてことを思いながら、それでもここを去れずにいる。たぶんもうしばらくここにいる。
安心できる場所で真綿で首を絞められるように息ができなくなって死んでいくのか、安心できないけれど胸いっぱいに新鮮な空気を吸って吐いてできるところで生きるのか。選択のときが近いことを感じる。
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