死について考える【63日目】
夢を見て、それが現実かと思う時がある。つらい夢も楽しい夢もある。
死ぬ間際、人間は走馬灯を見るようだが、それは夢とはまた違うものなのか。死んだあとは永遠の夢の中へ入るのだろうかとも思う。
死ぬ前に永遠の夢へ入ることもあり得るのではないだろうか。
死ぬ間際に走馬灯を見るという原理、脳へ激しい電流が流れ、人工的というよりは、人体の中で完結できる電流の量であるが、それが脳を一時的に活性化させ、すべての記憶を巡る。そして脳の中では長い時間が流れ、それが走馬灯となる。その長い時間がどのくらいなのか。例えば、人生100年生きてきて、その100年をもう一度脳内で生きる可能性もあり得る。逆に、もっと長く、10000年を、つまり、100歳を100回繰り返す可能性だってある。それはどのくらいの電気の量によるかにもよると思うが、さすがに人間の体内にある電気の量は限られているわけで、永遠は難しいであろう。
それが走馬灯ではなく、夢であったとしたら。100年分の新しい人生を夢の中で過ごす。もしかしたら、実は今もまだ夢の中なのかもしれない。本体は死にそうなのかもしれない。夢の中だというなら、もっと自由に動きたいものだが。夢であるならば、この人生、もう少し楽しく過ごしておきたいと思った。もちろん、夢の中でなくともそうは思うが、実に人間とは不思議なもので、客観視というか、他人事のようなことになってくると、意外と楽観的に物事を考える。今、夢という、現実の自分とは関係のない状態を思い浮かべ、その中に自分がいようとも、それは別の自分と捉え、そこへなら、いくらでもコミットできると考えてしまう。なんとも不思議だ。
さて、そういう夢物語はいいとして、同じ人生を繰り返すかもしれないという走馬灯と、別の人生を歩めるかもしれないという夢、このどちらになったとしても、今の生き方が大切なのであろう。同じ人生を繰り返すのであれば、楽しい方がいいわけで、別の人生を歩むならば、今の経験が活かせるかもしれないわけで。記憶を保持するかは、今は保持すると考えたとして。これまた夢物語であったわけだが。
つまりは、後悔しないようにしたいということなわけだ。後悔しない人生などないと思うが、その後悔は少ない方がよかろう。どうしたら後悔しないのか、そういうことを常々考えて行動したい。