死について考える【74日目】
死んだ後になって後悔すること。突然死が来て後悔すること。たくさんあるだろう。後悔しない人生などないはずだ。だって、今でも後悔することがあるのだから。それもむずがゆいものだったりするわけで、あの時なんであんなことしたんだろうとうわぁとなるような黒歴史だったり。そうでなくとも、ふだんの生活が嫌になることだってあるのだ。
全てがすべて後悔するわけではないが、そして、やってしまったことを悔いてはいるものの、必要だったと認識できるものもある。無理矢理そう思い込ませることもできる。
しかし、後悔のほとんどはやらなければ良かったと思うばかりだ。むしろ、そう思うからこそ、後悔なのであろう。ただ、それをやらなければ、今のあなたができていないとしたら。つまり、過去を変えたことで未来が変わるというようなもので、過去にそういう行いをしていなかったら今のあなたはいないということになる。それが些細なことでもあり得る話だ。
あの小さな経験があったからこそ、もうこうはしないと判断できるようになった、だとか。ああいうことが起きないように心がけるようになったとか。つまりは、経験として、知識として蓄積はされるのだ。
後悔しない生き方というのはある意味できないのかもしれない。人生自体を後悔しないと言う意味ではできるが、後悔がないという意味合いではできない。考え方によってはもちろんできる。後悔を後悔と思わない考え方だ。ただそれだけだ。
後悔しないように生きるのは難しい。未来の行動を予測し、さらにその行動を行った結果を予測する。たとえ、予測できたとしても、違う事象によってそれが変わることだってある。外的環境まで予測の範囲に入れるとなると、途方に暮れるであろう。
例えば、資料を作るという行動があって、それの予測をし、それが問題なく、また、その先の予測も問題ないと判断する。そして、実際に資料を作成して、しばらくは特に問題ないと感じていたが、資料を作ったことによって、例えば、誰かと同じ作業をしていて、所々異なる場所があって、その精査で、結局は資料を作らない方が良かったなんて後悔することに。時間の無駄だったり、逆にそれによって仕事が増えたり。そうやって、誰かという外的要因が、後悔につながることだってある。
しかし、それをポジティブな面で見るならば、精査に使われたであったり、仕事が増えるのが嬉しいと言う人もいる。そういう心持ちをもてれば、尚いいだろうが、なかなか現実は難しいものだ。
死ぬまで後悔しないことはないのがわかった、からには、後悔しても、それを後悔を思わなかったり、それを逆に活かしていく生き方の方がずっといいだろう。それによって得られる知見は大きい力となろう。それを理解できているかどうかが生きる上で大切なのだ。