死について考える【92日目】
余命半年だとしたらどういう生活をするか。ふだんと同じ生活じゃなくて、他の生活もしてみたいと思った。
それはやりたいことリストにあげるような大きいことから小さいことまで。エベレストへ登るなんてのも良い。かなり期間を削り、お金を削るが。
そもそもお金がなくてはできないこともある。海外へ行く場合は特にそうだ。のんびり旅をするにも時間は有限なわけで。半年は短すぎる。ジェット機で移動するならまだしも。
そういったことをしても、でも、やはり大切なのは身近な家族だったりするわけで。見たこともないような景色を見たいのはそういう余命を抜きでやるべきなのだろう。きっと。それができるのはいつなのかというと、実は今なわけだ。今、余命は宣告されていない。であれば、そういうことができるのは今しかなかったりするわけだ。
でも、今やらないのはなぜか。仕事、お金。だいたいこの2つか。大学生の時にやっておけばよかったと思うこともある。そこでもお金はかなり突っかかってくるわけだが。しかし、時間はあった。安い値段で行くのも悪くない。ジェット機はなくとも、自転車でも良いのだ。
今はお金がある程度あるが、時間はない。それは仕事を投げ出せば作れるものだ。でも投げ出さない。それは生きていく上では大切であって、しかし、この先、もっと時間がなくなっていくというのは確かだ。自分以外のことに時間をかけることが多くなるからだろう。それは新しい家族であったり。ずっと独り身で行くならば、それは関係ない。いくらでも時間を作ることができる。
時間が作れないというのは甘えだったりするわけだが、深く考えていくと、やはり甘えなのだろう。時間は作ろうと思えば作れるが、それを作らないのが社会人なのだろう。社会人というのは、少し言葉が適切じゃないかもしれない。サラリーマンというのが正か。サラリーマンでなければ時間は作れるのだ。
サラリーマンとは、これまた檻の中の人だ。社会という檻にいる。会社という檻にいる。会社を辞めずに世界一周できるのであれば、それこそ檻からは解き放たれているだろうが、そういう人はごく一握りだ。そもそも、お金持ちであれば、サラリーマンでなくても良いわけで、それもまたごく一握りなのだ。
こういう夢物語は結局は選ばれた人にしかできないわけで、でも、努力すれば、選ばれる方へ行けるとか何とか。そこへの努力はきっと計り知れないものだろう。それをするには何かを捨てなければならないだろう。それだけの覚悟があるのかどうかだ。結局は心の持ちようということであろう。心が強いか弱いか。私はきっと心が弱いのだろう。
死を前にすれば、その心が強くなれるのかというと、そうでもない気がする。結局は、どこにも行かず、病院で静かに過ごしそうだ。
それもまた私なのだろうが。
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