死について考える【85日目】
いま死んでも後悔ないかと聞かれたら、後悔はある。あれもやっておけばよかった、これもやっておけばよかったというのがある。でもやってない。なんでやってないのか。言い訳ならいくらでも思いつく。疲れたからなんてのは最低な理由だけど、実際そう思ってやってないことがたくさんある。本当にヤバいときもあるが。まぶたが耐えられないときだ。でもそういうときでも、ゲームはできたりする。不思議なほど自分の脳みそに苛立ちを感じる。
だいたいやっておけばよかったというのは、結果がわからないものだったりする。なんかの練習をコツコツやっておけばよかったという感じだ。やった結果はわからないけれど、やってれば、これくらいには言ってるのではないかということを今更ながらに思うだ。
今のうちに、近い将来そう思うことをコツコツとやればいいじゃないかと思うが、なかなか手が進まない。だって、結果もわからないし、結果がわかったとしても、本当にやって、そうなるかもわからないし。そんな不明瞭なものに力を注ぐほど暇がないわけではないのに。そういったことに力を注げないほどに理性が、経験が邪魔をする。過去に失敗を繰り返してきたからだ。コツコツとやってきたものが役に立たないことが多かったからだ。
日本の教育のせいでもあったりするだろう。学生時代にコツコツと学んだことは大人になってほとんど使えないのだ。ほとんどがダメになるのだから、コツコツやっても無駄だと感じる脳ができてしまう。その状態で、いま、新たに何かコツコツと始めようとしても、結果は無駄に終わる可能性が高いと脳が判断してしまう。
もちろん、失敗することは大切だ。だが、その失敗を活かしきれていない。失敗を糧に何かを進めなくてはならない。また、失敗は反省をして繰り返さないように、もちろん、挑戦しないという意味でないほうで、繰り返さないようにしなくてはならないのだ。いまは、挑戦をしなければ、失敗もしないという考えに至っている。そのとおりだ。何事もチャレンジしなければ、失敗は訪れないのだ。つまり。
失敗を恐れているのか。私は。
失敗を恐れる、これが私の一番の欠点なのだろう。失敗を恐れずにと、そういう性格だと思っていたが、それは思い上がりだった。実際は、失敗を許容できる範囲でしか、チャレンジしていないのだ。つまり、失敗しても、それを失敗と思わないほどの失敗にしかならないようなことにしかチャレンジしていない。失敗しても、損が全くない状態でしか、チャレンジできていないのだ。
もちろん、損がある失敗は良くないければ、そういうものにチャレンジしない限りは、大きな利益は得られないのだ。つまり、ハイリスク・ハイリターンなことこそが、経験として活きてくるということだ。
ハイリスク・ハイリターンは良くないと世間では言われているだろう。きっと。例えば、大手会社からの突然の転職、大金を注ぎ込んだ賭けごと、株やFXなどがそうだろう。そういうものに挑戦することを本当の意味でチャレンジしているとは言えなかったりする。無謀な挑戦というやつだ。しかし、そういった無謀なことをやってこそ、貴重な経験を得られるというのも事実だ。
その見極めは難しいだろう。詳しく語っていると時間がなくなる。10分という短い時間で書くにはもっとまとめてから書きたいが、なぐり書きが基本。仕方ない。今日の考えはここまで。
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