死について考える【67日目】
よく当たる大予言なんかを聞くと、そして、それが人間の危機、特に自分も巻き込まれる可能性がある危機と考えると、それこそ焦りを感じる。
命の危険を目の前にしてこそ、動けるのかもしれない。それだけでなく、身の回りの人々の危険すらも迫っているとなると、ただ事では済まないだろうと考える。
それは家族、友、会社の人、近所の人、いつものお店の人、様々だ。
今回、コロナで、かなりの死者が出ているようだが、それよりも恐ろしい感染症が来るらしいとtiktokで見かけた。信じるも信じないもあなた次第といったところだが、感染症は常に対策しておいて損はないだろう。そもそもコロナが収まっていない以上、対策せざるを得ないのだが。コロナのワクチンも効き目が1ヶ月とかなんとか。1週間だったか。忘れた。インフルエンザのワクチンのように毎年、つまり、1年もつわけではないのだなと。それでも1ヶ月に1回打てばいいとわかれば、打つのかもしれない。今後。
さすがに、1ヶ月に1回はワクチンも足りないであろうから、さらなる改良は続いていくだろうわけだが、そして、全員がワクチンを摂取すれば、感染拡大を防ぐことはできるのだが。
12月に新たな感染症がと聞いた。12月までに何かやり残したことはないかと考える。今はもう7月。そもそも半年過ぎている。今年を。今年は何もやっていないなと本当に感じる。
やり残す以前に、やりたいことがないのだ。つまり、このままその危機が来たとしても、ああ、と言って、嘆いて終わるのが目に見える。その時になって気づくのだろう、あの時にあれをしておけばよかったと、後悔するのだ。それを予想できれば、今やるべきことがわかるはずだが、未来予知はできない。いや、自分の心情なのだから、未来予知ではないだろう。それは頑張れば想像できる範囲なのではないだろうか。
そう、今、それこそ明日、死ぬとしたらと、いや、死ぬは言い過ぎてその現実にそぐわないので、明日、その感染症にかかり、病院に入院し、その後がわからなくなるとしたら。つまり、今、体調が悪く、咳込みが始まっているとしたら、明日の朝には救急車で運ばれるとしたら。それだと、病気を治せるという考えしか思い浮かばないわけで、これはこれでポジティブだから良しとしたいが、それでは想像できる範囲ではなくなってしまう。
では、もう少し先に進んで、今、病院のベッドにいるとして、スマホでこの記事を書いていて、容態はかなり悪くて。そもそも容態が悪かったら、こんな記事は書いていないわけだが。それはさておき、では、記事は書かずに、とにかく、病院のベッドにもう体力もなく横たわっていたら。。。
申し訳ない気持ちがあるかもしれない。何かと貢献できていない自分がそこにいたから。この世へ。それは職場の人や友や家族、すべてなのだ。そして、私の職やこういった趣味を通して、世間の人々へ何か貢献できているのか、いや、できていない、その貢献が足りず、もう少し、もっと世の役に立てば良かったと感じるだろう。
つまり、周りへの配慮が少ないのか。もっと他の人のために立つようなことを生み出さなくてはならないだろう。いま。
それは何なのか。どうしたら、他の人の役に立つのか。ボランティアでもすればいいのか。何だか、わがままかもしれないが、小規模な気がする。もっと自分にできることがあるはず。高みを目指しすぎか。ハードルが高すぎか。だから、動けないのか。ボランティアでもやってみればいいのではなかろうか。
時期が悪いな。コロナはなぜこの時期にと少し思う次第だが、コロナのせいにしている自分がいるのも腹立たしい。コロナじゃなくてもやれることはあるはずなのだから。
今まで培って来た経験や技術をネット上で公開していくのもいいだろう。
さて、それもまた、何を公開すれば、何の経験が皆の役に立つのか、全然検討もつかないわけだが。
10分とは短いな。今日も10分。お疲れ様でした。
これとは別に、誰かの役に立つような何かを作れるよう考えを深めておきたい。
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