死について考える【36日目】
最近また思ったのは、死について考えるというよりは、死について考えるという口実で自分の内面と向き合っているのではないかと感じる。それはそれでいいのだろう。きっと。
本当に死について考えているのか疑問だったが、そういうのはどうでもいいのかもしれない。1ヶ月も死について考えると、考えもありきたりになってくるし、もうこれ以上考えても思い浮かばないことの方が多い。クリエイティブなジャンルならまだしも、そういった類の仕事ではないから、尚更、妥協が必要なのではないかと感じる。
と、まぁ、こういった内情を踏まえつつ、今日も考えていく。あくまで続けることに意味があると自分に暗示しながら。
最近は夏も近づき、暑い日々が続くが、まだ夏までは到達しておらず、風の気持ちい季節である。こうした風を感じることができるのも生きているからだろう。地球には奇跡的にも風がある。風の仕組みは科学的に証明されているが、詳しいことは忘れた。この風は必然的なものであるが、偶然的なものでもあるのではなかろうか。抽象すぎたので続きはない。
風に揺られ、ある程度の日光を浴び、この平和を享受する日々はとても心地よい。こういう日が続くといいなと感じるのである。しかし、毎度のことながら、こうした日々が続くと、堕落への道が続いているのではないかと思う。
年齢を重ねてから、こういう日々を送ることは問題なかろう。先が長くないから、堕落が先にあったとしても、それの途中でポックリ逝くからだ。若い時からこうした日々を過ごすと、歳を重ねた時、その時点で、堕落の瞬間がやってくる。どういった堕落がやってくるのかはわからない。でも、例えば、ずっとゴロゴロしていたとして、それが若い時は楽しくて、でも歳を取って他のことがやりたくなった時、鍛えていない筋肉は動かないわけで、何もできないのが現状だ。年老いてから体が動かせずに旅行に行けないと嘆く人も多いだろう。そういった状態がある意味堕落になるわけだ。
そうならなければいいと思っていても、ただ運動をすればいいというわけでもない。今は例えで体がと話したが、他のことだってあり得るわけだ。例えば、スマホをもたずにいたとして、将来、もっとネットで何かやりたいとなった時に、学習コストがのしかかる。若い時にやっていればよかったと後悔する。運動以外にもこういうこともあり得る。そして、それが何なのかはその時になってみないとわからない。
つまり、今できることをやっておかないと、年老いた時、また何かに挑戦したくなった時、そういう時にチャレンジできる土壌が、土台がない状態ができてしまうわけだ。20代は仕事を頑張れと言われるけど、それも、例えば、40歳になって重職についたとして、後輩から何か依頼がきたとして、対処できるかということである。何もやってこなかった人は判断できる能力がないわけだ。やってきた人は判断も素早い。そもそも、そういう重役になれる器になれないだろう、何もやらなかった人は。もちろん、その重役になりたくないと、そういう人であれば、例えば、畑仕事だけしてる人とか、そういう場合であれば、別だろう。まぁ、畑仕事も、災害に左右されるわけだから、その場合の対処として、若い頃にこれをやっておけばよかったと後悔することはあるだろう。
そういうわけで、今何かをやるということは、何かと大切なのであった。ただ、それが何なのかはわからない。未来予測ができるわけではないので。でも、今やっていることは全力で取り組むべきなのだ。そして、今がダメだと感じているのならば、もっと他のいいものを見つけ、それに取り組むべきなのだ。私は学生の時に、もっと英語を頑張れば良かったと感じているわけで、すでにこの歳で後悔しているのだ。この先、こういうことはもっと増えていくだろう。今流行りのものを素早く取り入れて、早くに活動する。それが将来何かあったときに役に立つはずだ。だから、無心でもいいから、取り組むんだ。それが今の生き方だろう。
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