死について考える【69日目】
少し前回の内容を振り替えつつ書いていこう、今日は。
前回は忙しいスケジュール感で生きている心地がしないというところから、忙しい人でも生きてる心地を持てるようにみたいな、そんな雰囲気だったみたいだ。
忙しい人でも幸せになれるのか、といったところ。むしろ、忙しくて幸せだという人も多いはず。それはやりたいことができているからではないのだろうかと感じることもあろう、そういう人たちを見ていると。
ただただ単調作業で忙しいではどうだろうか。いくら心構えを変えたとしても、なかなかきついものがある。工場で常に集中して物事をやり続ける。工場は単調作業が多い場所で有名だから例に出したが、他にも何でも良い。そういう単調作業が続く場所で、常に仕事が回ってくる。事務でもいいのだ。例えば、いまではもう時代遅れであろうが、やっているところはあるであろう、書類を電子化するという作業。作業としては無限にあろうだろう。次から次へとやってくる仕事。でも単調で、つまらない仕事。そういった仕事にやりがいを見出して幸せを感じることはできるのだろうか。正直、難しい。
考え方を変えれば、仕事も楽しくなるなんて世の本では謳っているけれども、本当にそうだろうか。本当にこういった仕事まで考えられて作られているだろうか。単調作業以外のことも含んだ場合に言っているのではなかろうか。もちろん、作業後に上司へ報告し、それが対価となって、という考えもできるが、だいたい今どきそんな作業をさせてる場所はブラックかのうのうと運営されている大手企業だろう。そんなところでそういう考えを持てる人はそもそもそういう作業よりも上の作業へステップアップできている。
もちろん、そうなりたいからそういう考えを持とうという謳い文句は良いことだろう。でも本には直接的にそう書いていることは少ない。直接的にそう書けば良いのだと常々思う。
さて、そういう本ばかりでないことは知っているが、あまりにそういう本が多いので長々と話してしまった。
では次に、もっと、嫌な仕事であればどうだろうか。単調作業はまだ許せる範囲だったりする。ただ黙々とこなしていればいいのだから。では、嫌な仕事であればどうだろう。いわゆる汚れ仕事だったりするわけだが。そこに価値を見出し、やりがいを見出し、幸せを感じることはできるのだろうかと。そもそも嫌なといっているくらいなのだから、幸せは微塵もないであろう。
むしろ、不幸せなのだ。幸せを感じるとしたら、その先に待っている給与だろう。誰からも嫌がられる仕事というのは給与が高い。だって誰もやらないのだから。その給与をもって、他の幸せを見つけるのが、嫌な仕事の本質というやつだ。
このように、考え次第でどうにでもなるというのは少し間違っていると言えよう。忙しいから不幸せだ、幸せだというのはその状況による。逆に、のんびりするのも、暇すぎて不幸せだと感じることもあるだろう。忙しさに言及しすぎて、こちらの言及が少なくなってしまったが、つまりはそうなのだ。もちろん、忙しくないというのを幸せに感じることもあるだろう。すべては状況とその人によるということだ。
私は忙しすぎないくらいが丁度いい。そして、それはどんな状況でもそうあってほしい。もちろん、暇すぎるのも嫌だ。わがままかもしれないが、そういう適度がいいのだ。
死ぬまでにそういう状態が続くようにしておきたい。若いうちにすべてをやり尽くして、老後に何も残さず暇ばかりになるのも問題だということだ。すべてを適度にやるべきなのだろう。そして、その適量は常に測り、記録し、基準を変えて行かねばならない。それが生きるということであり、それが経験するということであり、それが成長するということである。
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