死について考える【49日目】
今日は何もやらなかったと後悔すると気持ちよく寝れない。
人生で何もやらなかったと後悔すると気持ちよく死ねない。
1日を人生で例えることがあるが、こういうことなのだろう。
年下に、私の年齢に戻れるなら何をしたいと聞かれて、正直、3年前なら特に戻りたいとも思わなかった。5年となってくると違うと思う。10年になればなおさらだ。
その頃に戻って何をしたいか。そこで思い浮かべたことはつまり後悔していることなのだろう。
しかし、私の場合、何を考えても、結局はその両極にある、つまり、それをやる時に削るだろう時間の物事を、天秤にかけても傾けられない。その反対にあるものも意外と大切だったりするからだ。それがなければ、今の自分はないと思っているからだ。
どんなに無駄な時間だったとしても、その無駄を体験しているからこそ、時間の大切さがわかるわけだし、その分、無駄を作らないよう努力しようとするし、いまを大切にこれからを大切にしたいと考える。その経験がなければ、考えもつかなかったことなのだ。
つまり、ある意味では無駄な時間はないと言える。しかし、無駄な時間だったのは事実であり、それがあるからこそ、反面教師のように考えるからこそ、考えを成長させることができたのだ。その経験はもっと小刻みに、もっと多量に浴びたかったと、そう感じる。そして、それを振り返り、反省し、次に活かせば良かったと。経験自体は良かったが、それに伴う思考が追いついていなかったのがとても残念なのだ。そして、それを思い返すことができたのがたった今なのだ。いや、今もまだ実は未熟なのかもしれない。
大人な精神で物事を客観的に眺めることができれば、同じ失敗を繰り返すということは少なくなるのではないかと思う。それができないから同じ過ちを繰り返す。
イチローは失敗を、反省を、たくさん行ってきたと、人より何か特別に秀でてるわけではないと謙遜し、日々の努力を欠かさず、邁進し続ける。そういうことができたからイチローとして偉大な成果を残している。まー、ある意味では努力の天才なのだろうけども。
反省するというのはただ反省すればいいというわけでなく、もっと、こう、考える必要があるのだ。何をどう考えるかは、上手く説明できない。つまり、私はまだ反省のちからが未熟ということなのだろう。反省のちからを伸ばすべく、多く失敗し、多く反省し続けなければならない。反省の練習である。
プロは死ぬまで練習だ。ヒカルの碁の名言が頭をチラつく。