三島由紀夫「不道徳教育講座」読書感想文
33歳の三島由紀夫のエッセー。
すでに有名人となっていて、結婚もしたばかり。
69編があって、どのタイトルも過激に並んでいる。
どれほど不道徳なのか、いくつかを順番に挙げてみる。
『教師を内心バカにすべし』
『大いにウソをつくべし』
『人に迷惑をかけて死ぬべし』
『泥棒の効用について』
『処女は道徳的か?』
1編は5ページ。
文体は軽快。
「なのです」「です」「でしょう」という話し言葉で書かれている。
自身の日常や、ありふれた人々の会話が多く交えられたり、流行している本も映画も多く紹介されたり。
そうかと思えば、あらゆる古典を取り出したり。
それらをごっちゃまぜにして話が盛大に飛んでいくが、無事に本旨に着地させていく。
『女から金を搾取すべし』
『友人を裏切るべし』
『弱いものをいじめるべし』
『できるだけ自惚れよ』
『約束を守るなかれ』
この頃 “ 道徳教育 ” が、学校に取り入れられたらしい。
それが引っかかるのか。
学校の先生と官僚や役人が大嫌いでもあるらしく、真っ向から道徳を小バカにしたような挑発的なタイトルばかり。
いや、挑発はしてないかも。
挑発するエネルギーは使わずに、静かに冷笑して眺めているだけかもしれない。
それでいてタッチは明色。
ネチネチも感じさせない絶妙さで、皮肉もたくさんあって嫌味でもあるけど批判じみたりしてない。
この『不道徳教育講座』は『週刊明星』に連載された。
1年間続く。
『「殺っちゃえ」と叫ぶべし』
『罪は人になすりつけるべし』
『女には暴力を用いるべし』
『痴漢を歓迎すべし』
『人の恩は忘れるべし』
タイトルに釣られたのか。
非難や憤りの手紙が届きましたと、たびたび書かれている。
男性からは「こんな講座やめろ!」だとか。
女性からは「新妻は結婚をまちがえた!」だとか。
自称医者からは「あなたは精神障害です!」とか。
文学青年からは「これから自殺します!」というよくわからない一報も、なぜか届く。
その手紙もネタにして、真面目に返答しているのが逆にユーモアを感じさせる。
薄ら笑いしながら書いているのが目に浮かぶようだ。
『人の不幸を喜ぶべし』
『沢山の悪徳を持て』
『喧嘩の自慢をすべし』
『空のお世辞を並べるべし』
『死後に悪口を言うべし』
文中の日々のエピソードからは、人柄が伝わってくる。
オシャレで、人付き合いがよくて、話題も豊富で、行動力もあって弁も立った。
小説家でもあるけど、タレント扱いされてもいていたのもよく伝わってくる。
巻末の奥野健男の解説でも、よくしゃべり、よく遊び、よく食べ、よく笑う(大声で)楽しい青年と評されてもいる。
三島由紀夫のイメージって、なによりも保守を重んじて、書斎にこもっている気難しい文学者っぽい人。
それが、この1冊で跡形もなく崩れた。
『公約を履行するなかれ』
『人の失敗を笑うべし』
『人を待たせるべし』
『人のふり見てわがふり直すな』
『恋人を交換すべし』
これで過激どころの25のタイトルを挙げたけど、そのままの意味で飲み込むのはまだ早い。
半ページほどの前置きには、18世紀の小説家の井原西鶴の『本朝二十不孝』をモチーフにしているとある。
それによると。
親孝行の話などは読んでも面白くなく、くすぐったくなるような、わざとらしい話が多い。
そこにいくと、『本朝二十不孝』は思い切った親不孝の話ばかりで面白い。
自分も親不孝のつもりでも、上には上がいるものだと自信がなくなって、むしろ親孝行に思えてくる。
まずは自分を親孝行だと思うことが孝行のはじまりなので、こういう本にはなかなか益がある。
だからこのエッセーを『不道徳教育講座』としたのも、井原西鶴のためしにならった、とある。
読んだ直後の感想
感想は “ おもしろい ” の一言しかない。
この面白いはなんといえばいいのだろう。
ウィットが効いているというのか。
シニカルさが抜群とも言ってみる。
2行で感想が終わってしまった。
どこがどう、おもしろいのかを抜粋したいけど、それができそうもない。
一文一文のすべてが濃くてギュッと詰まっているし、当たり前のことなど書いてないし、どこかで見聞きしたような一文もないから、やっているうちに本を丸ごと抜粋してしまいそう。
巻末の解説を抜粋するに留める。
三島由紀夫は、封建時代の抑圧的な道徳を風刺して虚妄を暴く。
得意の洞察で、人間の心理を裏返しにして、悪へ破滅へ虚無へ向かう心の深淵を垣間見せる。
そして独特の逆説的レトリックで、結局は道徳を容認し、その智慧や真実を賛美するような結論に持っていく、とある。
5年後のネタバレ感想
「あの本はおもしろかった」という印象だけが、ずっと残っていた。
5年後に再読。
さらに1週間ほど、朝晩にこの本を眺めた。
するとどうやら、私的にはなるけど、69のタイトルは大きく以下の4つにカテゴライズされるようだ。
女性
エロティシズム
犯罪
若者
上記に沿ってネタバレ感想を書いてみた。
『女性』について
『知らない男と酒場へ行くべし』『処女は道徳的か』では、いきなり古代ギリシャの歴史家のヘロドトスの言を登場させる。
さらに詩人のフォルティウスの『恋愛論』という古典も『ダニエスとクロエ』という物語も索引されて、あれこれと女性について書かれる。
『うんとお節介を焼くべし』『毒の楽しみ』『いわゆる「よろめき」について』では、自身のエピソードに、いくつかの映画に、ゲーテから上田秋成まで交えて、女性についての一考を男性に向ける。
だいたいにしてというか、まあ自分も人のことは言えないけど、女性について理屈っぽく文章を書いたりする人は、どこか “ こじらせている感 ” が行間にじみでるもの。
だけど、三島由紀夫は、それを感じさせない。
20代半ばまで童貞だったヤツが言う割には、妙に説得感がある。
『モテたとはなんぞ』あたりは、割合と本旨から外れずに要約できるかもしれない。
世間の男たちが「モテた」とか騒いでいるのはどういうことでしょうかと、三島由紀夫は問うてくる。
“ モテた ” という表現は、男性特有のさもしい根性の表現であるように思われます。
対して、女性があまりモテたと言わないのは、もっと実利的なので、ただちやほやされただけで有頂天になったりはしないからではないでしょうか。
そして女性は利口ですから、男たちがモテたがる心理をよく知ってます。
さらに1ページほど、いかに男がモテると騒いでいるのが浅ましいのか書き連ねていく。
「モテたモテた」と言っている人間には、ひどく自信のない劣等感を持ったタイプの男がいます。
モテたという意識を通過しなくては、恋愛らしきものに突入できないのです、と厳しい。
散々と「モテ期がきた!」なんて言っていた自分にはグラッとくる感想があった。
『エロティシズム』について
くり返すけど、三島由紀夫は童貞を失うのが20代半ば。
本人が、この本の中で明かしている。
何歳とまでは口ごもっているが “ この年では遅かった ” とも “ 人生の一大痛恨事になっている ” とも書いている。
だからか。
『童貞は一刻も早く捨てよ』では珍しく熱く書かれていて、その分だけ要約ができそうだ。
ここでは三島由紀夫は『源氏物語』を根拠にして、優雅とは性的熟練と考えてもいい、と述べもする。
そして “ 童貞喰い ” をする女性は、菩薩の心をもって、菩薩道を実践しなければなりません、と呼びかける。
さらに2度までも、ニーチェはこう言っていると引き合いに出して、初体験の女性がいかに後年まで心の中に歪みを残すかを強調。
童貞を喪失する相手はおざなりにしないで慎重に選ぶように、とタイトルとは逆説に展開していく。
由紀夫よ。
いったい童貞喪失でなにがあったんだ。
ちょっと話を聞こうか、という感想だ。
ところが。
続く『桃色の定義』では、由紀夫と呼び捨てにしていた姿勢を一転して正した。
このタイトルは “ わいせつの定義 ” にしようと思ったけど、やっぱ “ 桃色 ” とした、とはじめる。
わいせつについて、私が今まで読んだ中で最も明確な定義を述べているものはジャンポール・サルトル先生である。
その著書『存在と無』の中でわいせつを定義している、これ以上に見事なものは知りません、と語る。
『性的ノイローゼ』では、もっと踏み込む。
バレリーナがどうの、女性の裸がこうの、白い壺がああだの、事例を挙げて性欲がなんたるかを力説する。
三島由紀夫いわく。
現代いわれている性欲とは、フィクションにすぎない。
イライラをムラムラに化学変化させた文明病でもある。
森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』を基に、日本の性欲史を代弁して、今の性欲とは油っこい外国人の猿マネだと指摘する。
健康な勃起とは、他から挑発されて興るものではないと、森の樵を例にして、ここに本当の性欲があるといっても過言ではありません、と締めくくる。
読んでいると、薄っすらと理解らしきものはできる。
いや、頭での理解ではない。
「わかるぅ~」という拳を握るような共感がある。
まさか、三島由紀夫と勃起論で意見が一致するとは。
「それを簡潔にまとめてみろ」と言われると、わずかにでもまとめることができないのが不甲斐ない。
でも、ニーチェもサルトルも登場してきたことで、これはエラいことになったとわかる。
というのも、このまえ。
調子に乗った読書をしたばかりだった。
平原卓の『読まずに死ねない哲学名著50冊』という、とんでもない本にうっかりと手を出してしまったのだ。
まだ早かった。
読むのに1ヶ月かかった。
読まずに死んでもいいのではないかという感想があったが、それでもはっきりと理解できて、驚いた箇所があった。
エロティシズムとは、哲学において、ほとんど手つかずに残っている領域で、真摯に取り組む価値のあるテーマといえる、と著者が解説する箇所。
エラいことではないか!
この2500年の間、エロティシズムについては、まともに考えてこられなかったのだ。
あのプラトンですら「男性が欠けた劣った生物が女性である」と、やっぱりこじらせている間違いを述べているし、そもそもが哲学を唱える人などムッツリスケベだかなんだか知らないけど、性欲や勃起について黙して語らない。
それを三島由紀夫が堂々と真摯に取り組んで、少しだけまとめたのは快挙ではないのか。
そんな気がして、エラいことになったと思った。
『犯罪』について
つくづく思う。
三島由紀夫は、犯罪を描かせたらすばらしい。
たびたび犯罪者を引き合いに出して、ありふれた言葉で犯罪を断じることなく、緻密に多面に造形するかのように描いていく。
『刃物三昧について』では、流血と殺人について書かれていて、割合と要約しやすかった。
ざっくりと以下である。
血や殺人については夏の方が多いのです。
冬の闘牛なんて間が抜けているように、真夏にこそ流血が似合います。
メキシコの遺跡を訪れたときも、亜熱帯のギラギラする猛暑の中のピラミッドの階段に、多くの生贄の血がザーッと流れ落ちた昔の儀式を想像するだけで爽快な感じでした。
日本人が今、日本古来の道徳感だと信じているものは、ほとんどは東京都衛生局が作り出した観念に過ぎません。
つまり、そこら中を掃除して、外国人に恥ずかしくないようにと綺麗にして、汚いものはみんな塀の裏側に積み上げてるか川へ投げ込むかして、そ知らぬ顔をして口をつむっている態度をしているだけ。
・・・この編が書かれたのは、暑い真夏ではないのか。
ここで珍しく、以下の極論をぶちまけている
文明開化の浅はかな考えで、日本人は原始本能を野蛮の一言で片付けてしまいました。
だから日本人が本当に文明人であるという証明が得たいなら、もう一度、みんなに日本刀を帯びさせるのがいいと私は思う。
夏の間だけは、日本刀を腰につけて出勤してもいいかもしれません。
風物詩にもなるし、みな利口だから、本当に斬り合いなんかならないのです。
その結果、夏の事件の統計が一変して、凶悪犯罪のグラフのカーブはずっと下降するかもしれません。
・・・要約してみたけど。
原文は省くところがないほど濃い、と補足しておきたい。
そして。
きっと三島由紀夫は。
自身が犯罪を行っても、そんじょそこらのしょっぱい犯罪ではなくて、さぞかし歴史に残るような大事件になるのだろうなと予感させる。
『若者』について
連載された『週刊明星』の読者には若い世代が多い、とある。
若者について書かれているというよりも、33歳の三島由紀夫は、1回り下の世代の男女に向けて多くを書いている。
親切には書いてない。
“ わかさ ” は “ ばかさ ” といわんばかりに遠慮がない。
だからこの本は、33歳以上が読めば、若さを笑えて共感も愉悦もあると思うけど、当の若い世代からすればイラッとするかもしれない。
『日本及び、日本人をほめるべし』では、逆説にはなっているけど、若者は無残な扱いとなっている。
以下である。
欧米では老人の自殺者が多いのに、日本の自殺者の大半は青年男女です。
若者の自殺はママゴトのようなもので、一種のオッチョコチョイであり、人生に関する無知からくるものです。
こんなに青年が軽率に死んでいき、老人はあくせくと希望に充ちて働いている日本こそ、この世の天国なのです。
・・・現在の若者と老人が特殊でもない、50年前からそうだった、ともわかるようだ。
『キャッチフレーズ娘』『映画界への憧れ』では、キラキラしたものに憧れる若者を諭す。
後者は以下である
映画の撮影所は、夢の工場ではなくて夢の裁判所なのです。
夢に懲罰を与える大法廷であって、浅はかな夢を持ってはいけないということを不断に教えている峻厳な裁判所です。
かつての軍隊はそういう場所でもありましたが、今では映画界だけがその代わりをしているのです。
見るも無残に青春の夢の殺戮している映画界は、現代で1番に正直な世界かもしれません。
・・・今だって。
映画界が置き代わっただけで、キラキラの構図は変わってないと思わせる。
『若さ或いは青春』では自虐もある。
暗い青春を過ごして、25歳を超えてから、もう1度青春をやり直そうと励んだらしい。
今になって目を細めて思い返します、と三島由紀夫は青春を振り返る。
青春はまったくの個人の病気であって、社会や政治の病気ではありません。
退屈と貧乏がなくなっても、決して青春という病気はなくならないのです。
・・・そうして。
ラストの69編目のエッセイになる。
ラスト
69編目は『終わり悪ければすべて悪し』というタイトル。
ざっくりまとめると、以下となる。
もともと日本には、西洋でいうようなおそろしい道徳などという代物はないのです。
現在、国をあげて動物のマネをしているけど、この本質的に植物的な人種には、動物の国の動物が作った血なまぐさい掟なんかはピッタリ来やしないのです。
大江健三郎氏がいう “ 自殺道徳 ” にも、私は賛成できません。
自殺するくらいなら、人を殺すか殺されるほうがマシ。
そのために他人がいる、世界がある。
それぞれが、それぞれ殺意を潜ませているこの世に生きているのが幸せ。
生き甲斐というものです。
・・・なんかどうか。
三島由紀夫の今後の悪い予感をさせる。
しかし、この本のタイトルは逆説になっている。
終わりが悪くてもいいではないか、と言いたいのかも。
で、話は変わるけど。
note には168冊分の読書感想分をUPしているのだけど、今まで1回も「この本はおすすめです!」だとか「おすすめの1冊です!」などと書いたことはない。
簡単に本をおすすめするのは不親切だと思っているし、自分の好みを見知らぬ他人に押し付けるほど、センスに自信を持ってないからそうなってしまう。
が、この本は。
どうしたものか。
それでも、おすすめはしない。
しないけど、せいぜい1割か2割ほどしか面白さが書ききれてないから、気になる人は、いっちょ読んでみるほうがいいのかも。
長編でもないし。
エッセーで読みやすいし。
50年前の発刊で古いけど、現代に通じるものが多くある。
で、突然にして三島由紀夫は。
ラストの1ページでは、今ここが深夜のバーだと見立てる。
なんでもない、3行か4行が過ぎてから。
もうお帰りください。
眠くなったから店は看板にします。
はい、おやすみなさい、と終わらせる。