横山秀夫「半落ち」読書感想文
3日目の取調室だった。
認めるも否認するもなかった。
警察の内偵捜査で、証拠はすべて揃っていた。
写真などは、どこでどう撮ったのか、一瞬を逃さずによく撮れている。
刑事とは、一流の盗撮カメラマンでもある。
酒を飲んで、おっぱいパブに勢いよく入店する姿も、出てきてから路上でおどけている姿も撮られているが、これは羞恥を与える作戦だろうから、戸惑いを見せてはいけない。
「ええ、揉みましたよ!しっかりと!なにか問題ありますか!揉んではいけないという法律でもあるんですか!」
「ははははっ」
「だいたい、これ、捜査に関係ないじゃないですか!」
「調べてみないとわからんからな」
刑事は勝ちを確信した笑いをしながら、カードを切る手つきで、次の写真を見せてくる。
※ 筆者註 ・・・ 以下、余談が長くなってしまってます。早くあらすじを知りたい方は、目次をご利用ください。
警察の捜査力に驚いた
次の写真は、歌舞伎町の “ うな鉄 ” だ。
驚くのは、騒がしい店内での会話も聞き取っていたことだ。
そんなはずはない。
確信犯の心得として、声はヒソヒソだし、だからこその騒がしい店内だったし、陰語も、指先のゼスチャーも交えていたのに、警察はおおまかの内容を把握できている。
その会話の写真も撮られている。
状況からしてみると、通路を挟んだ席にいたらしい。
通常では、人の話など聞き取れない位置だ。
補聴器でも使っていたのか?
刑事とは、公的なストーカーでもある。
「ただなぁ、これはな」
「どうしたんすか?」
「警察官の証言って、証拠能力が低いんだよなぁ」
「え、そうなんすか?」
「ん、いまの裁判官って、警察を信用してないんだよ」
「へえぇぇ。まあ、いろいろ、やらかしてるし」
刑事は自嘲したが、いずれにしても、これだけ証拠があれば、容疑は認めるしかない。
刑事だって、今は証拠証拠でやっているから、容疑者が否認しようが公判維持はできるという。
いや、所管外については、できるんじゃないかなという曖昧な言い方をする。
供述については、以前ほどは重視してないとはっきりと言いきった。
容疑は認めるしかないが問題がある
となると、友人がつけてくれた私選弁護士は解任しなければならない。
無罪を目指して闘おうと友人はいう。
それは勇ましいし、ありがたい話でもあるし、無罪を唱えるのも自由だけど、理屈もどうでも言えるけど、裁判では通らない。
「被告人の供述は信用できない」で終わる。
プラス「自己弁護に徹して反省してない」と刑が重くなる。
警察に逮捕されたことがない友人は、そこがわかってないのだった。
面会にきた弁護士は、有罪確定はわかっていながら「完全黙秘の作戦でいきましょう」とアクリル板の向こうで言う。
それだと量刑が重くなるってわかっているのに。
否認事件として裁判を長引かせれば、その分は裁判屋としての収入になると勘ぐってしまうが、当然それもあるのだろう。
なにも知らない友人は、弁護士商法のいいお客さんになっているのだ。
刑事に反感があるのではない
私選弁護士は解任するしかない。
解任はいいけど、警察からしたら、私選弁護士がいなくなればやりやすくなる。
あっさりとそれをして、刑事をよろこばせるのも癪だった。
解任をちらつかせて、少しでも刑事のほうから寄ってくる態度も試したかった。
「解任するしかないのかぁ、迷うなぁ・・・」
「ん・・・」
「どうしようなぁ・・・」
「よし、田中君の心が決まるまでつき合うぞ!」
刑事は、椅子にのけぞって、腕を組んで無言になった。
自分はうつむいたが、捜査がどこまで進んだかを確めるのは今しかないなと、すぐに思い直して顔を上げた。
が、その瞬間で、刑事は寝落ちしていた。
腕を組んだまま、口を半開きにして、かはぁ~と気持ち良さそうに寝息を立てている。
しかし、刑事とは一流の役者でもある。
こちらの出方に、寝てるフリという高等テクニックを使っているのかもしれない。
しかし、どう見ても寝ているようだ。
ヨダレも垂れてきそうだった。
仮にも、今は取調べ中ではないのか?
あり得ないことだけど、もし自分が、ランボーみたいな容疑者だったら、この人どうするのだろう?
真っ先に死んでいる。
でも、疲れているのだろう。
この事件の捜査が終わるまでは休みがない、といってもいってもいた。
半落ちとは?
そのまま寝かしてあげて、ジャージの毛玉むしりをしていると、10分ほどしてフゴッとして、ビクッとして、バチッと目をあけた。
「あれ?オレ、寝ていたのか?」
「ええ、そのままにしときました」
「そっか、何分くらい寝てた?」
「2、3分ですかね」
「ははははっ、もう1時間は寝たかんじがするなあ!」
「おつかれのようで」
「はははははっ、で、なんの話してたっけ?」
「弁護士を解任するって話してました」
「あっはははははっ、そっかそっか、じゃ、解任届だな」
「すきにしてください」
未だにあれはテクニックなのか、それとも本当の寝落ちだったのかわからない。
・・・ 余談がすぎた。
そうそう。
刑事の『寝落ち』を書きたかったのではなかった。
『半落ち』とは “ 一部供述 ” という警察用語ですと書きたかっただけだった。
とにかく熱い
熱い。
とにかく熱い。
熱すぎる。
登場人物の全員が、とにかく熱い。
しかも、登場人物すべてが中年男。
彼らが放つ、独特の正義感の匂いがプンプンしてくる。
その中年男の脂ぎった熱さが、読んでいるこっちの体にまとわりつくようだ。
セリフはちょっとクサいけど、それも気持ちいい。
顔圧と共に、唾が飛んできそうな勢いがある。
でも「うわ!ツバ、きたね!」と振り払う余裕がない。
こっちだって「そうだ!」とか「ちがう!」とか前のめりになって読んでいるからだ。
繰り返しになるが、熱い。
最初から最後まで、ノンストップで熱い。
感動とかではなく、ただ熱い。
ちょっと無理があるところもあるけど、そこは小説だからいいではないか!
20年前の小説なのに、法改正もされて現場の整備はされているのに、いかに彼らの体質だけが変わってないのかも実感した読書だった。
おおまかな内容
事件が警察から検察へと引き継がれる。
弁護士が加わり、新聞記者が割って入る。
裁判官が判決を下して、刑務官が執行する。
それぞれの登場人物が違和感を覚えるのは、半落ちの犯人は、なにを隠しているのだろうということだった。
それぞれの立場から、違和感を明かそうと試みる。
が、ベルトコンベアー式の法務システムだし、組織の思惑や個人の利得、といった壁もある。
犯人も核となる部分は語ることなく、それぞれの所管から手離れしていく。
犯人は、刑務所で服役する。
最後になって、犯人が隠していたことが明かされる。
それは、衝撃というほどでもない。
が、よかったと素直に思わせた読書だった。
いきなりネタバレ登場人物
梶聡一郎
W県警本部教養課次長。
49歳。
性格は温厚で生真面目。
書道家でもある。
7年前に、1人息子を白血病で亡くしていることから、骨髄バンクにドナー登録している。
すでに1人に骨髄を提供している。
で、アルツハイマーの妻を絞殺する。
県警幹部ということもあり自殺も考えたが、51歳の誕生日までは生きようと自首をする。
ドナー登録が取り消される51歳までは生きて、もう1人は救いたいと思い直したからだった。
※ 筆者註 ・・・ 現在の骨髄バンクのドナー登録では、51歳の年齢制限は変更されているようです。
池上一志
梶からの骨髄の提供により、移植手術を受けた青年。
手術は成功して、歌舞伎町のラーメン屋で働く。
志木和正
自首した梶の取調べをした刑事。
なにかを隠している、まだ半落ちだと感じて、個人的に捜査を続けて、それがドナー登録だと探り当てる。
51歳の誕生日に自殺するつもりだとも感ずく。
佐瀬銛男
検事。
警察から上げられた供述調書に捏造を感じる。
警察と対立することを承知で、無断で再捜査もする。
が、タイミングがわるかった。
検察官の不祥事がおきて、警察が事件にしようとする状況となる。
その不祥事を隠蔽するために、供述調書の捏造を黙認する。
中尾洋平
新聞記者。
事件の裏に、なにかあるのを嗅ぎつけて調べ回る。
が、警察と検察に隠蔽される。
植村学
弁護士。
弁護の実績をつけようとして、梶の私選弁護人となる。
調査では、真実に触れる証言を得る。
しかし、裁判が不利になるのを避けて、その証言を隠す。
藤林圭吾
裁判官。
警察と検察の調書に疑念を抱くが、被害者である梶の妻の心情を悟り、真相を解明することを諦める。
古賀誠司
刑務官。
定年が間近い。
受刑者となった梶の態度に、戸惑いを感じている。
規則に厳格ではあるが、志木の依頼を特別に聞き入れて、話し合いの場を設ける。
ネタバレあらすじ
現職警察官の殺人がおきた
梶聡一郎は、教場の教官を任じていた。
指導を受けた若手は、温かみのある人だと話す。
その梶が、妻を絞殺した。
51歳の妻は、アルツハイマーを患っていた。
その日の昼間に、1人息子の命日の墓参りに行ったことを忘れてしまったのだ。
それが発端だった。
夜になってから、息子の命日まで忘れてしまったと泣いて騒いだ妻だった。
そんなの母親じゃない、と半狂乱で叫ぶ。
もう人間じゃない、もう死にたい、息子のことを覚えているうちに死にたい、せめて母親のままで死にたい、と泣く。
お願いだから死なせてほしい、と梶の両手をとり首に当てたのだった
なんとかなだめようとしていた梶だったが、このときばかりは妻が不憫でならなくて、首を絞めたのだった。
殺人のあとの歌舞伎町
妻を絞殺したあと、梶は自殺を考えた。
県警本部の警部が殺人を犯したのだ。
子供も妻もいなくなってしまった今、警察官として死んで詫びるために首を吊るつもりだった。
が、新幹線で東京へ向かう。
歌舞伎町に出向いたのだ。
遊興目的ではなかった。
梶は、骨髄バンクにドナー登録していた。
1人息子は、白血病の型が適合するドナーが現われずに、命を落とした。
その息子の死後、ドナー登録したのは、誰かを代わりに救いたいという想いが沸いてきたからだった。
登録2年目になって、適合する患者が現われて移植は成功。
その相手が歌舞伎町の一番小さなラーメン屋で元気に働いていると梶は知っていたのだった。
「誰が」「誰に」を明かさないのが移植のルールだったが、お互いの年齢や、住んでいる都道府県くらいは伝わる。
回数と内容の制限はあるが、骨髄移植推進委員会を介して手紙のやり取りもできる。
それに梶は、新聞に投稿された、ある青年の骨髄提供のお礼の記事を目にしたときには、年齢や時期などの状況からして、ラーメン屋で働いているという彼が移植相手だと見当もつけていた。
生きようと覚悟する
梶は、歌舞伎町でいちばん小さなラーメン屋という手がかりだけで街を歩き、当の池上が働く店を探し当てた。
血が呼ぶものなのか。
池上が移植相手だと直感でわかった。
でも、名乗るつもりはなかった。
人殺しから骨髄をもらったと知れば、彼は苦しむだろう。
そう気持ちを慮り、梶はカウンターでラーメンをすするだけだった。
梶は、その青年の元気な姿を一目見て自殺するつもりだったが『生きよう』と考えが反転する。
51歳の誕生日がくれば、ドナー登録は取り消されるが、それまでに骨髄移植でもう1人救おうと決めたのだった。
逮捕されて、警察官としての人格が引き裂かれても、留置場や刑務所で生き恥を晒しても、51歳までは生きようと覚悟したのだった。
3日目になって自首をした
自首をしたときには、妻を絞殺してから3日が経っていた。
梶は、犯行の動機も経偉も隠すことなく供述した。
が、歌舞伎町へ行き、池上と会ったことは秘した。
誰もが予想したとおりに、事件は大きく報道された。
県警トップは記者会見を開いた。
犯行後の梶は、自宅で首を吊ろうと悶々としていたと発表。
ところが、新幹線のホームで梶を見たという目撃者が現われて、発表に疑問に感じた新聞記者が記事にした。
県警トップは、再度の記者会見を開く。
梶は死に場所を求めて、自首をする3日目まで県内をさまよっていたと供述していると改めて発表した。
県警トップの苛立ち
県警トップは苛立っていた。
梶の自宅に置いたままになっていたコートのポケットからは、歌舞伎町の個室ビデオのティッシュが発見されたと報告を受けていたのだった。
街頭配布されていたものを何気なく受け取り、ポケットに入れたままとなっていただけだったが、ますます県警トップを苛立たせていた。
れっきとした県警幹部が、妻を殺して、そのうえ遺体を放置して歌舞伎町に行っていたなどと、もし記事にされたものなら、本当は遊興目的ではなかったとしても、県警トップは全員切腹ものだ。
県警トップは、口々に憤る。
「なぜ、アイツは自殺しなかったんだ!」
「どうして、3日もたってから自首などしてきたんだ!」
「アイツは、そんなにも命が惜しいのか!」
次いで、梶の自宅の鴨居から、ロープをかけた痕跡が見つかったと報告もきた。
「よし!自殺はしようとしてたんだな」
「これで、自殺をしようとしてたと発表できる」
県警トップはよろこんだ。
嘘の供述調書が出来上がった
取調室の梶は、県警幹部の憤りは察している。
だから、自首するまでは自殺しようと県内をさまよっていたなどと、警察の意に沿う嘘の供述をしていたのだった。
しかし対面している志木は、そんな梶に納得がいかない。
命が惜しいのではない。
なにか隠している。
まだ “ 半落ち ” だ。
本当は自首するまでなにをしていたのかと訊くと、梶は涙を流しながら椅子から転げ落ちるようにして土下座をした。
「本当に死に場所を求めて県内をさまよってました!」
梶は、床に額をこすりつけるだけだった。
後半からラスト5ページほど
警察での取調べを経て、検事の起訴となる。
裁判がはじまり、判決も下された。
梶の刑は確定して、W刑務所に服役する。
その日に梶は、刑務官の古賀に連行されて、別棟の調べ室に入った。
そこには、捜査の名目で訪れた志木がいた。
なんと、移植相手の池上も同席していたのだ。
志木は捜査を続けて、事実を突き止めたのだった。
そして、梶の自宅の壁に掲げてあった書字から、51歳の誕生日がきたら自殺するつもりだと推測もしていた。
その日で、ドナー登録が取り消されるからだ。
梶を死なせないために、池上を同席しての刑務所での面会ができるように古賀を説得したのだ。
規則に反するので協力を拒む古賀だったが、強引に説得を続けて、この場をつくったのだった。
池上はいう。
「今度は、とびきり旨いのつくりますから、またきてください」
池上も直感していたのだ。
あの日、来店した梶が、提供者ではないか感じたのだ。
「ちがう、・・・わたしじゃない」
梶は否定する。
池上は顔を赤らめて、呼びかけるようにして言う。
「お父さん・・・、僕には、お父さんが2人いるって、いつも話してるんです」
池上は、震えている手を両手で握る。
立会している古賀は、志木に目でなにかを言う。
『ぜったいに、この男は死なせない』と伝えてたのだった。