二千一夜物語30

30.鳩首会談
 アラン・コルバン『風景と人間』そして『音と人間』を続けて読み、中性から近世にかけて静寂の社会的価値が大きく下落したことを知った。孤独のゆかしさが消えてしまったことも。
 きょうもまたこの図書館のこの閲覧室に公然の暴力がやってきた。どうして本読みがケータイ通話の傍受者にさせられるのだ。
 われわれは対抗手段を協議した。われわれとは私と三人の同業者のこと。年来はひとりが十代でもうひとりが八十代、私と残るひとりが六十代だ。十代が最も老成していて八十代がいちばんやんちゃ。身に覚えのない大人と身にそぐわない子供というところ。
 老作家が口火を切る。
 「反ケータイ闘争をやろう」
 一同異存なし。
 「れは公共圏のゆがみです」
 「刃渡り一五センチのジャックナイフだ」
 「素手で立ち向かうのは危険かも」
 だがそうだとしても、われわれは刃傷沙汰を避けない。作家とは世に災いを招く者の別名だ。われわれはいつもネタに飢えていて、だからいつでも騒ぎを起こす用意がある。
 いま、社会の水底にはどっさりの不安や不満が沈殿している。それをかき回すのが犯罪者と芸術家だ。われわれは強いて事を荒立てる。われわれが創作を行うのは社会を変えるためであり、そのさい既成の秩序を省り見ることはない。
 ビジネス族の朝食会が労働搾取の共同謀議なら、われわれのお茶会は世界転覆のくわだてだ。もしかしたらそれは明日にでも起こることかもしれない。世界中の証券市場で株価がのきなみ暴落し、銀行という銀行がドミノ倒しになり、チェーンストアに火が放たれ、腐敗政権が総崩れ――と、そんなことを夢想しながらわれわれは生きている。だからもしそれらが現実のものとなったら、いちばんうろたえるのはわれわれかもしれない。
 「そうだね。でもカタストロフィー願望はやはり知的退行の産物だよ」
 「眠れぬ夜の虚妄ですか」
 「夜の妄想に浸り込んではなりません。昼の日ざしに耐える強い虚構を作らなきゃ」
 さすがに十代はエッジが立っている。その鋭敏さは「著作者はおのれの著作で死ぬこともある」と言った青年マルクスを彷彿とさせる。
 「けどまあ、パッとせんね」
 老作家のそのぼやきで話は別線へ。
 「先週東京へ行って文芸フリマに出店したんだが、ちっとも売れなかった。朗読も聞く耳なしでね」
 その報告は座を沈ませた。われわれは売れない作家団だ。その状況を変えるべくあれこれ動いてはいるのだが生花はさっぱり。
 「でも、もうひとつの目的は果たせたんでしょ、国立図書館への寄蔵は?」
 その私の問いに老作家は笑って答えた。
 「老い先短いってことでね」
 「でも収蔵された」
 「死蔵に決まっとる」
 「読まれる可能性はあります。いま全国で公共図書館はどんどん増えてるから」
 「貸本は作家の首を締めるだけだよ」
 「けどドイツじゃ貸出回数で作家にお金を払うしくみができたそうです」
 「本の年金だな」
 その時、小さな靴音がわれわれの席に近づいてきた。それが誰のものか私にはすぐわかった。
 「お集まりでちょうどいいわ。あなたたちの文献リクエストについて言っときたかったの。こっちを混乱させる前にきちんと確かめなさい。書名も著者名も間違いだらけよ」
 その叱責は私の耳に心地良かった。古株司書の山上咲子はきょうも元気だ。引退はずっと先のことだろう。願わくばライブラリアンの最長勤続記録を打ち立ててほしい。遠くアレキサンドリアの昔から、図書館には不可欠のキャラクターだ。そういえば彼女、どことなく猫に似ている。

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