二千一夜物語25
25.無用の用
知人が胃を悪くして入院した。絶対安静を言い渡され、動けない身体と進まない時間をもて余したあげく、猛烈な読書家になった。彼が出会ったのはエラリー・クイーンだった。息子が病室に置き忘れたその文庫本を退屈が手に取らせた。たちまち時を忘れてのめり込み、最後のページをめくるのが拷問になったという。
読み終えて、彼はすぐさま息子に電話してブックオフに走れと命じた。そしてシリーズ全巻を枕元に揃え、昼夜の別なく読みふけった。生まれてことかた教科書と取扱説明書しか読んだことのなかった男が、わずか一週間で本の虫に変身した。
この出来事から引き出せるのは、いまの世の中で本を切実に必要としているのは老人と子供と傷病者であるということだ。その三者はいずれもこの勤労社会のアウトカーストである。人口で全国民の四割を占める。そして残り六割の働き蟻は決して本など読まない。そんな余裕など彼らにはない。胃に穴があくほどの苛烈な現実と日々格闘している産業兵士には、精神を遊ばせる時間など全くないのだ。それこそ傷病兵にならない限り。
私がかつてその勤労動員社会の新兵だったころ、世界の実相を教えてくれた上司がいた。彼は巷にあふれかえる商品群を明快に三分類してみせた。つぎのように。
(一) 世の中になくてはならないもの
(二) あってもなくてもいいもの
(三) ないほうがいいもの
おそらく本という商品は、(二)と(三)の間に位置する。そしてまたこの分類は、仕事についても当てはまる。すなわち次のように。
(一) やらねばならない仕事
(二) やってもやらなくてもいい仕事
(三) やらないほうがいい仕事
バートランド・ラッセルいわく「この世の有益な仕事の半分は有害な仕事との闘いから成る「と。
なるほど。そう言われてみれば警察や消防それに国家や軍隊は、自分たちの仕事がなくなることを究極の目的としている。
ならば作家の仕事はどうだ?
本の効用はたしかにある。私としてはそう言いたい。実際にも本は人が生きるうえで大切なことを教えてくれる。たとえば遺伝子研究の最新成果を。「氏より育ち」だそうだ。大いにうなづける。そしてまた私が先週読んだ『アインシュタインの脳』という本には、「彼の脳は一般人の脳と何ら変わらなかった」と書かれていた。
そのように本は、万人に開かれた答えである。有益この上なしだ。
さてそれで、わが本はといえば、困ったことに、どんな事実も証せず、ものごとの意味づけもしない。ただ架空の物語を真実のように見せかけるだけ。そんなものが読者の真情に触れることができるのか?それは指運だ。
いま世界は、さまざまの問題はあっても確実に中庸を育んでいる。その層に刺激物は不用だ。またどれほど扇情的な書き手であれ、心の底から退屈している人間や絶望している人間を動かすことはできない。
思うに、いま世界にいちばん不足しているのは丹念で実直な手仕事ではないだろうか。スティーブン・キングが言うところの「ボルトとナットの仕事」だ。そうしたものが正当に認められることを私は望む。
そのうえで、この私に足りないもの、それは比喩だ。メタファーだ。私は言葉を実用よりすこしだけ輝かせたいと思う。「海は鯨の通り道」とか「星々は美しい断崖」などといつか書いてみたい。
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