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この世界はどんな世界か?/アセンブリ

GWにフランス旅行に行った帰りの便。飛行機が遅れてシャルル・ド・ゴール空港で4時間も待つことになった。もともとドバイの乗り換えで6時間以上待つ予定だったから、先にパリで待つことになったと思えばよい(ドバイ着はどうせ夜中だったので空港で過ごすしかなかった)。お土産をいつも以上にゆっくり見たり、お茶して時間をつぶしたり、本を読んで過ごした。
そのとき、ちょうど持ってたのが、ジュディス・バトラーの『この世界はどんな世界か?』だった。旅行中はもう一冊持っていっていたジョルジョ・アガンベンの『王国と栄光』のほうばかり読んでいたので、あの待ち時間がなかったら、バトラーの方は読まずに持って帰ってきたかもしれない。その意味ではラッキーだったのか。あのとき、あの本に触れたことが、その後、いまに至るまで、僕がフェミニズムに強く関心をもつきっかけになったのだから。

バトラーのコモン

バトラーのこの本を読んで気付かされたのは、多くの場合、ポジティブな価値をもつ共有資産を意味するかのように捉われがちな「コモン」という語が、同時にネガティブな意味での共有物をも当然ながら含むということだ。
僕らは良い意味でも悪い意味でも世界を共有している。気候変動、パンデミック、経済危機、検索結果や生成AIによる回答など、僕らは生存に関わるさまざまなものを互いに共有し相互に影響しあう状況のなかで生きている。お前のものはおれのもの、おれのものもおれのものといったジャイアン的私的所有は単なるフィクションでしかないことをあらためて認識する。

バトラーはこう書いている。

生き残ることと生き続けることの問題に関していえば、われわれはたがいに依存し合っている、あるいは、空気と表面、呼吸と接触の世界を共有している。おそらくはそのために、われわれは共通の義務として、大気汚染、ウィルスの伝播、身体の接触、労務災害、性暴力、といった事態を規制する方法を見出さねばならない。

この世界はどんな世界か?/ジュディス・バトラー

この本の副題「パンデミックの現象学」が示すとおり、バトラーが上記で生き残ること/生き続けることを空気や呼吸の共有を結びつけるのは、コロナ禍の経験が世界中の人びとに強く印象づけた相互依存と生命維持の強いつながりの可視化という現象があってのことにほかならない。
そして、バトラーが続けて「こうした規制は犠牲をともなうので、それを望まないひともいる」と書いているのを読むとき、僕たちは生命維持を一部犠牲にするかのように経済の維持に舵を切った行為がこれまた世界のあちこちで見られたことを思い出す。

「一部」を犠牲に、と書いたのは、バトラーがこの本の後半部で問題提起する「誰の命が公的な喪の対象になり、誰の命がそうならないのか」という問いが念頭にあるからである。

たとえば、健康保険が全国民に提供されていないアメリカでは罹患した人への治療に明らかな格差があらわれた。それだけでなく、そもそも水道サービスが民営であるがゆえに利用料金が高額であることから貧困層はコロナ禍にあっても十分な手洗い環境にアクセスすることすら叶わなかった。
COVID-19というウイルスが共有された状態にある一方、医療サービスや本来、コモンであってよいはずの水へのアクセスが、人によって可能であったりなかったりしたわけである。
あらゆるものが有償化される一方で、職の選択肢は必ずしも平等に与えられてあるわけではない。性別や年齢、配偶者や子どもの有無、人種や国籍、障害や病歴の有無などなどが理由に、まともな職にありつけずに貧困状態を余儀なくされれば、生活に不可欠な基本的なものにすらアクセスできなくなる。
それは社会の構造的問題であるはずなのに、自己責任で当人たちが解決すべきことのように扱われてしまう。

こうした状態にバトラーは明確に疑問を呈している。

誰の命が公的な喪の対象か?

「誰の命が公的な喪の対象になり、誰の命がそうならないのか」という問いは、社会システムが生命の維持という問題においてすら、そうした排除を生み出している状況を明らかにしている。

ウイルスの伝播やその他、大気汚染や環境破壊などを防ぐための「規制は犠牲をともなうので、それを望まないひともいる」のは、それが人類共通の利益でなく、個々人の利益に結びつくからである。

そうしたひとにおいては、環境を破壊する権利が、個人的自由および利益を得る権利と密接に結びついているのだ。社会生活と経済生活は歴史的に構成されるものなので、いまあげた事態はみな、われわれが対処しなければならない問題である。

同上

「われわれはたがいに完全に区別されない」し、「われわれは契約や同意に先立って、すでに他者の生にかかわっている」にもかかわらず、社会的に構成された私的所有の原理やそれに基づくアクセスや利用の権利の主張をすることで、それを持たない(とされる)人びとや環境から生存の維持に必要な条件を奪うひとがいるために、ある一定数の人びとの「命が公的な喪の対象」から除外されてしまっている。僕らのなかの一部は、この人為的な排除が行われた厳しい環境で生き抜くことを余儀なくされている(あるいは生きることを断念させられている)。

この世界はどんな世界か?

この排除のしくみ、そして、場合によっては排除していること自体を見えなくしてしまうしくみがあるからこそ、僕らは「この世界はどんな世界か?」と問う必要がある。排除を不可視化し、本来そこにある相互依存、共有の関係を存在していないかのようにみせるような「公的な喪の対象」から除外する行為を陽の光のもとに晒して、その是非を問い、然るべき改善のアクションを起こす必要がある。
とうぜん悪いのは、排除のしくみを構築している人だけでなく、その排除のしくみに知らんぷりをして、その維持を可能にしてしまっている人たちも同罪と言えるだろう。

バトラーはこうも書いている。

どうすればこの状態で生きられるのか、という問いが或る確信――「この状態で生き続けることはできない」ーに変わるとき、われわれは哲学的でもあり社会的でもある、以下のような焦眉の問いの渦中にいる。生そのものの持続を約束するような人生の営みを可能にする条件とは何であるのか。そして私は、われわれの生の価値を肯定するために、自分の人生を誰と分かち合うのか。これらの問いは、よき人生とは何かという問いとは違うし、人生の意味とは何かという昔なつかしい実存主義的な問いとも違う。

同上

だからこそ、僕らは「生そのものの持続を約束するような人生の営みを可能にする条件とは何であるのか」を問う必要があるのであり、それと同時に「われわれの生の価値を肯定するために、自分の人生を誰と分かち合うのか」を考えることで、逆にそのことで誰をそこから除外してしまっているのかを考えなくてはならないのだろう。

現れの権利

バトラーの本をもう一冊読みたくなって読んだ『アセンブリ』は、社会の構成的なしくみによって、不可視の領域に排除された人びとの抵抗としてのアセンブリ=集会という形式を取り上げた一冊だ。

ジュディス・バトラーの2冊の著書

ウォール街でのオキュパイ運動など、世界金融危機の影響を受けた人びとによる抗議運動は世界各地で行われたし、コロナ禍においてもブラックライブズマター運動の抗議活動が拡大したことが記憶に新しい。バトラーは社会システムから排除された人びとによる抗議の集会において「身体が集合することが重要」であると書いている。

具体化=身体化された多種多様な行動は、厳密に言えば、言説的でも前言説でもない仕方において意味を表明している。(中略)礼拝や葬儀を含む黙想の集会はしばしば、彼らが何者であるかについての特定の書かれたもしくは発声された説明以上のことを意味している。こうした身体化され複数的な行為遂行性の諸形式は、必然的に部分的であるとしても、「人民」を理解する上で重要な要素となっている。

アセンブリ/ジュディス・バトラー

このデジタルでバーチャルな空間が広く深く浸透した世界で「誰もが身体的な形式で出現しあるわけではない」ことはバトラーも理解しており、「指定されたプラットフォームへの完全なアクセスと現れの権利を持つ人々によって「公的領域」が無批判に措定されてきた」ことの不平等性も認識している。デザインでバーチャルな空間はそうした理想をもつ人びとがいて、そのための努力が行われていたとしてもやはり、誰もに平等にひらかれた公的領域とするにはアクセスと現れの権利が制限されている。

現れの空間から排除されないこと

それゆえ、バトラーは「現れの空間から排除されないこと」を重視し、身体的に複数性をもって人びとが集まる「現れの権利」が大事だというのだ。

『この世界はどんな世界なのか?』同様、バトラーには、世界から排除された人がいて、その人たちは諸権利を奪われているという問題意識がある。ゆえに、バトラーは、人は集団となって街路にあらわれ、奪われた権利を戻すよう主張する権利があるというのだ。

バトラーが独創的だと思うのは、集会が行われる公的な空間、たとえば広場は集会の前提条件であると同時に、それまである人びとを社会的システムから排除することで成立していた偽りの「公的領域」が集会によって広場という物理空間をあらためて公共性をもったものに再構成されると考える点だ。

これらのデモあるいは、まさしくこれらの運動は、公共空間で主張すべく共に到来する諸身体によって特徴付けられる、と述べることは簡単だが、そうした定式化は、公共空間は所与のものであり、そうしたものとして既に公的であり、承認されている、ということを前提としている。もし私たちが、こうした群が集まる際にその空間の公的性格そのものが議論されており、争われてさえいる、という点を理解し損ねるなら、これら民衆デモについて重要な何かを見逃すことになる。(中略)集団行動は空間そのものを集合させ、舗道を集め、建築を活気付け組織化する、ということだ。私たちは、民衆集会と公的発言のための物質的諸条件が存在する、という点を強調するのと同程度に、集会と発言がどのように公共空間の物質性を再構成し、そうした物質的環境の公的性格を生産あるいは再生するのかを問わなければならない。

同上

社会システムが公共領域から排除した人びとが、複数の身体をさせるという彼ら/彼女ら自身の行為によってその場に真の公共性を復活させる。現れの権利とは、こうした公共性の再構成の機会のために必要なものということだろう。ここにこそテキストや発言だけでは起こりえない行為遂行性による、公共性についての異議申し立てが生じる集会の可能性がある。

見えなくされる依存

この世界は犠牲を引き受ける存在によって成り立っている。そのことが広場における集会、大通りにおけるデモ行進、都市の周縁における蜂起という形をとった公的領域への権利の主張によりあらためて明らかになる。

世界は誰かに犠牲を強いる依存のうえに成り立っており、問題はその依存が普段は見えなくされていることだろう。
僕たちの暮らしを豊かにするさまざまな物資が遠い国の人びとの割に合わない過酷な労働を犠牲にして手に届いているということや、1979年に当時の政府が打ち出した「日本型福祉社会」の構想は「個人の自助努力と家庭や近隣・地域社会の連帯を基礎としつつ、効率のよい政府が適正な公的福祉を重点的に保障する」というものであり、自助努力を軸とした福祉のありかたは家庭における女性の無償労働を前提にしていたものだということもそうだろう。そもそも、終身雇用を特徴とした「日本型雇用は、女性の排除で成り立っていたシステム」であると本多真隆さんが『「家庭」の誕生」』で書いている。

1950年代には大企業を中心に男性労働者の55歳定年制が広まる一方で、女性労働者の定年は30代に抑えられることも多く、さらに結婚、妊娠、出産を理由とする結婚等退職性が浸透した。

「家庭」の誕生/本多真隆

1985年に男女雇用機会均等法が制定されるが、多くの企業がこれを機に「総合職/一般職」の区別をつくり事実上の男女別採用を導入している。女性の無償労働としてのケアの上に、人びとの生命や健康の維持、生活や仕事を継続的に行う上で不可欠な食事や洗濯、掃除、さらには育児や介護が成り立っている。繰り返しになるが、問題はこうした犠牲が社会システムのなかに組み込まれて、あたかも当たり前のことであるかのように機能していることであり、バトラーに限らず、多くのフェミニストたちが講義を行っている点だ。

バトラーは、こうした社会システムを成り立たせるために犠牲を受け取らざるを得ない状況を「不安定性」という概念で表現している。

「不安定性」が指示するのは、ある種の住民が他の住民よりも社会的、経済的な支援のネットワークから脱落して苦境に陥り、差別的な仕方で侵害、暴力、そして死に曝されるような、政治的に誘発された条件である。従って、前述したように、不安定性とは不安定性を差別的に配分することである。差別的に曝された住民は、適切な保護や救済がなけれは、病気、貧困、飢餓、立ち退きの、そして暴力への可傷性の、高いリスクに苦しむことになる。

アセンブリ/ジュディス・バトラー

こうした不安定性を差別的に配分された人びとが、その差別を当たり前であるかのように見えなくしている社会システムに抗議する権利が現れの権利である。現れの領域においては、そうした犠牲に基づく依存関係があらためて可視化され、それにより、集会の空間における公共性が再構築されるとバトラーは考えている。

相互依存性のある種の諸形式を明言して提示する諸々の方法は、現れの領域そのものを変容させるチャンスである、というのが私の仮説である。倫理的に考えると、一連の結束と連携を見出して築き上げ、相互依存性を平等価値の原理に結び付ける方法が存在しなければならず、承認可能性を差別的に配分する諸力に抗する仕方で、あるいはその当然視された機能を混乱させる仕方でこれを行う方法が存在しなければならない。

同上

複数の人びとが身体的に公的な空間に集うアセンブリは、普段は「承認」の外に追いやられた人びとに「承認可能性」を再配分することになり、それゆえに、そうした人びとの排除によって成り立っていた通常の社会システムは混乱する。

その混乱による社会システムの不具合は、それまで隠されて見えなくされていた、犠牲を払っていた人びとの存在と、彼ら/彼女らとの依存的つながりとを、特権を得ていた人びとの眼前にも明らかになる。彼ら/彼女らの存在が自分たちの暮らしを成り立たせていたことにいまさらながら気づく瞬間だ。

というのも、いったん生が等しく価値があり相互依存的なものとして理解されれば、ある種の倫理的定式が帰結することになるからだ。『戦争の枠組』において私が示唆したのは、たとえ私の生が戦争によって破壊されないとしても、他者の生と生の過程が戦争で破壊されるときには、私の生の何かが戦争で破壊される、ということである。

同上

バトラーがここで指摘しているのは、そうしたつながり、依存関係の明示が同時に明らかにするものが、排除したはずの他者の生の破壊は、結局のところ、自分たちの生の一部の破壊を招くということだ。コロナ禍の状況や、現在のロシアとウクライナ間や、ガザでの戦争が全世界を巻き込む影響は、まさにそうした依存関係を明らかにするものだろう。

予告、ケアの倫理

さて、最後に、この夏休みを機に、noteの更新を再開した理由の1つは「ケアの倫理」について考えをまとめておきたいと思ったからであることを記して、次回の予告につなげたい。今回のバトラーの2冊の本を紹介するこの記事もその前段として書いているわけだ。

ケアの倫理とは何かは次回書くことにして、その言葉を知ったきっかけである、岡野八代さんの『ケアの倫理』から、先ほどまで扱っていた「相互作用」の話題に関連するこんな引用をしてみたい。

依存関係や相互連関のなかでの関係性は、予測がつかず流動的で、時に矛盾に満ちたものとなり、維持や修復、関係それ自体への注視が必要となるのだ。ある関係性のなかで、さらによりよい関係性を維持するための働きかけそのものが、また新しい関係性を作りあげてもいく、ある意味で終わりなきプロセスともいえる。

ケアの倫理/岡野八代

ケアというのはコストがかかるものだ。
ケアというものは、たがいに刻々と変わる状況を生きる者同士の相互関係のなかで行われるのだから、常に、たがいとの関係性を更新し、結びなおしているのだとも言える。ほんの些細なことでそれまでうまくいっていたことがうまくいかなくなり、おたがいにまた新たなうまくいく方法を探ることにもなる。
そんなコストのかかる活動がケアなのだが、それがジェンダー役割分担的になぜか女性の側に偏ってしまっている上に、それが家庭内の仕事、私的領域で自己責任で行うことであるかのような社会的構成になっている。

男性が外で仕事をできるのは、女性がケアの仕事を引き受けてくれているからである。もちろん、そうした家庭単位のこともあるが、それ以上に問題なのは社会システムそのものがケアを家庭内に閉じ込め私的領域の問題であるかのように扱い、公的領域の問題として政治的に検討し保障する負担を追わずにあることの方がはるかに問題だ。

1979年の日本型福祉社会構想が描かれた時代、日本がアメリカの市場原理と個人責任を重視したモデルとも、北欧のような包括的な社会保障モデルといういずれも共働きを前提とした国々とは異なるモデルを採用できたのは、経済成長は鈍化しつつあったとはいえ、欧米先進国に比べればまだ経済が好調で男性稼ぎ手モデルを維持できる環境にあったからと言われている。
しかし、もはや男性稼ぎ手モデルは完全に破綻し、共働き世帯の割合も2010年以降、急激に伸びている状況だ。大幅な社会福祉モデルの見直しがなければ、シングルマザーなど、社会システムがモデルの前提として視野に入れていない人ほど、犠牲になってしまうだろう。そして、それはそうした犠牲を強いられる人びとだけの問題でないことは、先のバトラーの「他者の生と生の過程が戦争で破壊されるときには、私の生の何かが戦争で破壊される」という言葉を思い出せば明らかだろう。

引き続き、この問題について書いていきたい。


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