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見えていないものを計画する

計画として描きだすべきものは、見えていない事柄だと思う。
実行にあたって、まだ見えておらず、そのため、実行に支障が出そうなところはないかと考え、その見えてなかった部分の絵を描いてみる。それが実行のための計画に必要なことだと思う。

わかっていることを計画しても仕方がない。わかっているなら、それはもう計画済みだと言ってもいいくらい。言い換えれば、わかるということが計画だ。
まあ、わかっていると思っても、他の選択肢はないか探ってみるくらいはしてみてもいい。つまり、この時点の「わかっている」というのは、他の選択肢が見えてない状態だともいえる。

創意による計画

わからないから計画する意味がある。見えていないものを描くのだから、それは模倣ではなく創意だ。
だから、僕は計画=デザインのはじまりをマニエリスムに見たくなる。

模倣より創意を良しとした幻想は独創性をグロテスクなものの過剰なモードへと向けさせることが多かった。マイケル・レヴィが書いているように、16世紀初めには「創意は意識して自然に挑みかかり、芸術は早晩、模倣の彼方に行くべき運命であった」。ヴェネデット・ヴァルキは本質的形式と偶発的形式を区別し、前者はミメティックだが後者は「つくられた事物にではなく、つくった人間にこそ」起源を持つのだと言っている。

ジャンカルロ・マイオリーノの『アルチンボルド エキセントリックの肖像』からの引用。
マニエリスム期、芸術はルネサンス期の自然の模倣から離れ、人工的な「幻想」のイメージを創意によりつくりだすほうに移行する。

自然から離れて、より人工的なものに移る度合いが大きくなれば、それは独創的であると同時に、いままで見たことのない像として奇怪なものと映るかもしれない。アルチンボルドの描く寄せ絵のポートレートのように。
新しく見たことのないものがグロテスクなのは、いまも人は本当に新規なものには否定的な態度を示すのだから、創意の結果はそのようなものなのだろう。イノベーティブなものほど、怪物的でグロテスクだ。

話はすこし逸れた。元に戻そう。
とにかく、まだ、やったことがなく、それゆえ実行前に見えていない実行計画を立てるというのは、模倣ではなく創意が必要になるということだ。模倣というものは見えているものに似せて再現することであるから、見えていないものを計画によって見えるようにするなら、それは模倣ではどうにもならない。ゆえに創意が必要になる。

形式を横断して別のものをひねりだす

だから、創意で仕事をする方法がわかっていない人には、はじめてやることの計画は立てられないということだ。まだ見ぬものをどう描くか?がわかっているか、いないかは、はじめてやることの実行計画を立てられるかどうかにも関わっている。

何より創意がない人の多くは、自分に何が見えていないかをわかるのが下手だ。なぜ見えてないものがわからないかといえば、そもそも何が見えているかを把握しようとしないからである。見えないものが何かを理解するためには、見えるものの方を並べて整理してみる必要がある。整理したときに抜けている部分が見えてないものだ。それ以外にみないものを明らかにする方法はない。

でも、そもそも見えていないものを並べられないということもある。模倣の方法にばかり慣れて、その方法しか使ってこなかったツケなのだろう。前例どおりにしか物事を進められなくなっている。創意がない。
だが、実は創意とは模倣の方法の転換である。人はゼロから何かを生みだすわけではない。アルチンボルドの絵がいかにこれまでにないイメージを表現していたとしても、元は既知の自然物であり、新しさはその組み合わせから来ている。

創意は、結局、まだ見ぬ組み合わせを自分なりにつくりだすことができるかということにかかっているのかもしれない。
まだ見ぬものはグロテスクに映ると先に書いたが、自分で既知のものを並べてみて、まだ見ぬ組み合わせをつくった場合でも同様のことが起こる。
ただ、そのグロテスクさに負けてしまっては、計画にはならない。見慣れなさから来る不安に打ち勝ちつつ、それが自分にとって知っていることをちゃんと並べられているかを問う必要がある。

マイオリーノはこんなことを書いている。

「詩ハ絵ノ如ク」は諸観念の統一を謳うかわりに、諸芸術の境界の形式上の横断のメカニズムと化した。他のマニエリスト同様、アルチンボルドもまた一芸術の材料から別の芸術をひねりだした。

たよるものがあるとしたら、これだろう。まだ見ぬものだとしても、ほかの形式がひとつの参考にはなるかもしれない。領域を横断して、ほかの形式をリファレンスにして、自分なりの既知のものの並びを作ってみる。そのことから、見えないものを見えるようにする方策が見つかるかもしれない。

いずれにせよ、創意というのは模倣が良しとするやり方をいかに裏切ってみせるかということであり、そこには幾分かの覚悟はいる。その覚悟を自分に引き受けられないなら、創意は持てない。そして、その創意がなければ、やったことのないことの実行計画は立てられないということになる。

見えないものを見えるようにする創意の方法をそれぞれ自分なりに身につける必要がある。

#計画 #マニエリスム #アルチンボルド

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棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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