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非常を平常と受け入れるまで
2年前に会社を辞めてから基本的に在宅勤務になった。
誰かにどこかに強制的に集められ、「その場にいるというパフォーマンス」でサブスク的に固定のお金が入ってくるという環境ではなくなった。
やった分だけが入り、やらなければ入らない。
「場にいる」ことより「パフォーマンスをする」の方に重きが置かれる生活。
誰からも監視や管理されることのない暮らしは、自分をだらけさせるかと思いきや、次第に生活リズムを作ることに成功し、今では割に心地よいサイクルで暮らしている。
部屋の中で仕事をすると集中できないこともあったが、やらなきゃいけないことについてはどこであっても最終的にはやらざるを得ないわけで、言い訳はきかなかった。
それは、仮面浪人時代の最後の追い込みの時に似ていた。「落ちたらおしまい。誰のためでもなくどこまでも自分のため」という時、結局人はやるのだった。
大きく儲けることもなかったが、暮らせないほど逼迫することもないままフリーランス1年目は終了した。
圧倒的に休みは増え、ストレスは減り、収入もやや減った。
どこまでも「やった分でしかない」という感じの収入になった。
ただ、その「生身で生きてる感」に、どこか罪悪感があった。
本当はもっと働けるはずなのに、自分を追い込みすぎてないこと。
会社員時代に比べて圧倒的に減ったストレスも、「いいのだろうか?」とうしろめたさを抱かせた。
なんというか、自分は(生きることを)怠けてるんじゃないかと思ってしまっていた。
そうこうしているうちに、「時代が私に追いついた」。
よく「時代が私に追いついた」という表現をすることがあるが、今回の世界中の在宅リモートワークがスタンダード化した感じはまさに、その体感があった。
通勤がないことを楽に感じ、仕事を始めるスタートダッシュに出遅れることに戸惑い、次第に慣れ、一人で仕事をすることに気楽さと孤独さを感じ、カットされる収入を不安に感じるも、「おうち時間」を楽しむ心の余裕がでてくる(さらには、それにも飽きて、ストレスを感じるところまで)
こういう言葉は適切ではないかもしれないが、少し安堵していた。
みんなが自分と同じペースで仕事をするようになったことを。
(コロナの影響をもろにうけている方々に気楽に言える言葉ではないが、今回は「働き方」についてだけの話とご了承願いたい)
「サバイバルファミリー」という映画がある。
ある日突然、世界中が電気の使えなくなり、すべてのライフラインがストップする世界がやってくる。
初めは「いつ戻るのだろう」と、復活のその日までなんとかしのごうと策を練る人々が、次第に「復活しない」ことを受け入れていく様が描かれている。
今回の出来事は、自分にそのシーンを思い出させる。
人間がどこで「これが非常じゃなくて平常になるんだ」と受け入れるか
いま、その過渡期だと感じてる。
「“日常”が戻ってきた時のために耐える」動きと同時に「これが“日常”である場合にどう生きていくか」も考えなきゃいけないのだろうし、すでにもう、そっちを考える時間を増やした方がいいような気もしている。
いずれにせよ立ち止まれないことには変わりない。動き続けなくてはいけないのだけれど、その動きを、どういう動き方にするかの選択肢をいくつか持つということだ。
映画の中では「いつまでも「日常が戻る」ことを信じて疑わない主人公家族」と「割り切って動き出す同僚家族」が描かれている。
人間が「日常の変化を受け入れる」ことがどれほど困難かがすごくよくわかる。
私だってやっぱりどこかでこうやって、映画に重ね合わせて非日常に変換しないとこの状況を処理できないし、まだまだ「旧日常」的価値観の中で判断していることもたくさんある。
今までずーっとあった日常がなくなることは怖い。怖すぎる。
でも藪から棒に怯えるのではなく、状況を受け入れて、自分の生き方を考え直した方がいいかなと今は思っている。
目下は、今後、自分はどうやって生計を立てて生きていくかが課題だ。
「戻った時にどうするか」で考えるのを一旦やめて、「戻らなかった次の世界」の歯車の一つとして自分がどう存在していこうか。
ありあまる時間の中で、そんなことを考えながらやれることを小さく1個1個つぶしていこうと思う。